人生の軌跡・流郷松三郎の残思録

米寿に想う我が人生

1970年の秋【23】

初の海外旅行【23】ドイツ訪問(2)  デュッセルドルフ・その2

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雨のデュッセルドルフ市内とドイツ労働総同盟との会議

 10月26日・月曜日、エッセン市から列車で40分、デュッセルドルフ市に到着しタクシーで午前中の会議が行われるドイツ労働総同盟のビルに向かった。
 デュッセルドルフは西ドイツ商工業の中心地で日本企業も多くの駐在員を派遣しており、我々視察団も何となく気持ちにゆとりを感ずる都市であった。

   今回の視察団はヨーロッパの公害問題が主なテーマであったが、労使問題についても各国で意見交換する機会を持っていた。中でもドイツは日本と同様に敗戦国でありながら確実に復活の道を歩き続け、労働者の地位向上も突出した存在を示していた。ロンドンを訪れて英国病という不況の姿を見て来た後だけに、勤勉性ではヨーロッパ人最高と云われるドイツの労働事情について大きな関心を抱いていた。

 会談する相手は西ドイツ労働組合の全国組織である〝ドイツ労働総同盟(DGB)〟で日本で云えば当時の〝総評〟現在では〝連合〟に相当する団体で本部がデュッセルドルフ市に置かれていた。
 タクシーで到着して先ず驚いたのが建物の大きさ・立派さであった。
 下の写真は帰国後に見付けた新聞記事掲載のDGB本部であるが、全国組織といっても、これが労働組合が活動するための本拠かと目を見張るほどの巨大な建物であった。

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 文頭に会議の写真を掲載したが、活力にあふれ自信に満ちた担当者の説明に真剣に傾聴した記憶が鮮明である。当時西ドイツは社会民主党政権の下で労働者の地位向上が図られている最中で、賃金水準は高く安定した賃上げの素地が伺えた。中でも強調されたのが〝共同決定法〟の存在とその意義であった。

 西ドイツは自由主義陣営に属する資本主義国家であるから、企業経営は取締役会が総括するが、取締役会の業務を監査し、取締役の任免権を有する監査役会に経営側と同数の監査役を送り込む事が出来るのが〝共同決定法〟であった。

 このため労働者の意識が向上し生産性の向上に繋がっているという趣旨の話が熱心に語られ、先進的な労使関係の姿に強く感銘した。

 会議終了後、社内ランチ?に招待された。数百人が一度に座れる食堂でメニュー、配膳はセルフ・サービスである。手帳のメモによれば豚肉とキャベツとジャガイモと書かれているが、豚肉はステーキでキャベツはドイツ料理に欠かせない大量で一寸酸っぱい細切り煮つけ、それに茹でたジャガイモであったと今でも鮮明に覚えている。

 食堂の雰囲気、ランチのメニューも至って庶民的であったが、ドイツ人の日本人に接する態度がイギリス人やフランス人とは異なり、親しみと共感に満ちている事、そして胸襟を開くことが出来る雰囲気が存在することを強く感じ、同時に共に第二次大戦で戦い、敗戦の憂き目を喫しながら経済再建・国力復興に努力している仲間同士であるという意識が両国民に存在することを痛感しながらドイツ労働総同盟の人々と建物に別れを告げた。

 午後はライン河畔にあるウェストファレン州労働厚生省に移動し、公害問題と住宅問題についてドイツの現状と対策について説明を受け意見交換した。

 午前中の会議ほどの集中力がなく内容は思い出せないが、窓から望見できたライン河に架かる橋の景色にしばし気を取られたのを覚えている。デュッセルドルフで活躍したロマン派の作曲家ロベルト・シューマン1854年に精神的な悩みからライン河に身を投げた逸話が頭の片隅に浮かんだ様であった。

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上はロマン派の大作曲家シューマンが投身したライン河と橋の情景 (1850年の版画)