人生の軌跡・流郷松三郎の残思録

米寿に想う我が人生

1970年の秋【28】

初の海外旅行【28】ドイツ訪問(7)東西ベルリン市・その3

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東ベルリン側から見たブランデンブルグ門とウンター・デン・リンデン 1970年10月28日

 10月28日(水)午前10時頃、地下鉄フリードリヒ・シュトラッセ駅の国境検問所から東ドイツ国内に入りしばらく歩くとブランデンブルグ広場に到着した。雨にもやったブランデンブルク門から続くベルリンの壁をかすかに望見すると、遂に我々は壁を越えて東ベルリンに来たという実感が湧いてきた。駅から広場までは短い距離であったが寂れた様子で人通りもなく瞬くうちに西ベルリンとの活気の差を痛感した。

 上の写真は広場入り口付近から遠望したブランデンブルグ門と広場から直結するウンター・デン・リンデン(〝菩提樹の下〟という意味の大通り)である。水曜日の午前中という時間帯であるが双方の写真に人影は皆無である。雨天の為かとも思ったがそれにしても不気味な静寂感が漂っていた。
 ブランデンブルグ門の写真に写った自動車が周囲の雰囲気にマッチしない高級感を放っていることに違和感を覚えながら広場中央まで進んだら、正面にきらびやかに装飾された大きな建物が出現した。ドイツ語通訳先生の説明でソ連大使館である事が判明したが広いブランデンブルク広場を睥睨するように威厳を放っていたのが印象的であった。

 ウンター・デン・リンデンは戦前からベルリン市のシンボルでパリのシャンゼリゼ大通りに匹敵する街路である。1970年当時はソ連大使館をはじめ東ドイツ政府諸官庁やフンボルト大学、国立歌劇場、歴史博物館などの文教施設が軒を並べていた。確認した訳ではないが、上の右側の写真は多くの車が駐車している様子から東ドイツ政府当局や東ベルリン市諸官庁の建物であると思われた。

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ウンター・デン・リンデン フンボルト大学からテレビ塔を望む 修学旅行?の女生徒一行

 一日ビザで入国したが東ベルリン市の観光情報は持ち合わせず、中心街を徒歩見学することで一決し歩き出した。ウンター・デン・リンデンの官庁街を外れた所に有名なフンボルト大学があり、背後に聳えるテレビ塔を入れて記念写真を撮影した。こちらも人影はなく駐車する車と道路の水溜まりに映える建物の影が淋しげである。官庁街を抜けだした処で初めて人影に接したのが上右写真の女子生徒集団であった。雰囲気から修学旅行の女生徒一行と推測したが、雨の中で気温も下がっていたが質素な衣類を身に着け素足を出して歩く姿に健気さを痛感した。

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左・シュプレー川畔のベルリン大聖堂 中と右・国営百貨店とお土産に買った押し花額

  雨のウンター・デン・リンデンを歩き、右側に寂れた感じの国立歌劇場、左側に歴史博物館を眺めたあと水路を過ぎて巨大な教会が前を遮るように現れた。上左写真のベルリン大聖堂である。50年前のバカチョン・カメラで1枚だけ撮った写真で、帰国後に現像してみなければ良否は分からない訳であるが、結果はみじめで豪壮な外形だけしか映っておらず残念であった。

 時間が丁度お昼時になりシュプレー川の橋のたもとに適当なレストランを見付けて腰を落ち着けた。地元の先客が10数人いて入室する我々日本人団体を注視する視線に冷ややかさを感じたが、彼らの表情に明るさがないのが気になった。会話を交わす雰囲気はなく、また壁の中の共産圏国家という恐怖感も手伝って互いに無言で終始した。

 ウエイターが来てメニューを紹介したが、チョイスの結果亀のスープを薦められ、冷え切った体を温めた。高価な料理であったのか覚えていないが、それぞれ東ドイツマルクを集めて支払ったような記憶が残っている。

 小雨が続く中アレキサンダー広場まで足を進め周辺を見学した。広場中央には東ベルリンのシンボルであるテレビ塔が建っていた。1969年に建造されたので我々の訪問時は新築ほやほやで、上部に円形の展望台を持つ高さ365メートルの鉄塔はパリのエッフェル塔をしのぐヨーロッパ最高の威容を誇っていた。フンボルト大学の写真の背景にその姿を見ることが出来るが、果たして市民が展望台から西ベルリン地区を眺望できたのかどうかは知らぬままである。

 アレキサンダー広場に面して建つ国営百貨店(上の写真中央の建物)に入り、店内を見物しながら土産物を物色した。電化品や日用品は一応揃っているが品数が少なく粗雑な作りが目立っていた。西ドイツと較べて極端に違うのが衣料品で素材も悪いが色彩感に乏しくデザインもディスプレイも拙劣であった。

 全般的に品質が悪いのでお土産に叶う品が見付からないが、東ベルリン訪問記念として不可欠であると同時に東ドイツマルクを消費することが求められている。再交換出来ないので帰りの交通費を残して使い切るために見付けたのが民芸品であった。一番多く並んでいたのが木彫りの熊でベルリンのマスコットでもある事からお土産になると見込んで数個購入した。スプーンを探したが見当たらないので止む無く選んだのが上の写真右側に掲出した額入りの押し草花であった。正方形の方はパンジーの花びらのようでカラフルであったが、粗末な長方形の額に収まった植物は野菊のような草花で乾燥も十分でないため帰国後しばらくして色が黒ずんだ。お土産には使えず自分の思い出用として今でも書斎の片隅に場所を得ている派手ない飾り物である。

 全く不愛想で事務的な百貨店員とのやり取りのほかには東側のドイツ人との会話機会はなく、予定時間を過ごしたので帰路についたが思わぬハプニングに見舞われた。アレキサンダー広場近くから国境駅のフリードリヒ・シュトラッセ駅に向かうSバーン乗車時に頼みのドイツ語通訳とコーディネーター先生の二人に乗り違えられ、団員9人がホームに残された。路線も不案内で言葉も通じず携帯電話のない時代で連絡不可能となり不安のどん底に落されたが、兎に角次に来た電車に乗り込んだ。緊張しながら次の駅のプラットホームに先生二人が心配そうに待っていたのを見付けた時は正に地獄で仏に会った思いの帰還劇であった。

 フリードリヒ・シュトラッセ駅で東独兵の検問を受け地下鉄に乗車、廃墟の駅を通過した後に西ベルリン地区に入り、クーダム近くの駅で降車した。すっかり暮れた街並みにはネオンの照明が輝いていた。

 ホテルに帰着した後、揃ってディナーに出掛けたが、東ベルリン見聞・体験の衝撃が強烈でその夜の会話行動は霧の中に飛散した。