人生の軌跡・流郷松三郎の残思録

米寿に想う我が人生

1970年の秋

初の海外旅行【44】イスラエル訪問(1)入国とキブツ宿泊

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イスラエル通貨10アゴロット貨幣とエルサレムのスプーン(嘆きの壁

  上左側の写真は1970年当時のイスラエル硬貨10アゴロットである。当時の通貨はポンドで、アゴロットは補助通貨であった。(現在の通貨は新シェケルである)

 1ポンドが102円86銭でドル換算は0.29であったから写真の硬貨は約10円相当の価値である。写真右側にイスラエルでのお土産スプーンを掲載したが有名な「嘆きの壁」訪問記念で壁の前の広場で店開きしていた売店での購入である。硬貨の10アゴロットはその時に貰った釣銭である。

 イスラエルでは入国に際して通貨交換を行わなかったと記憶している。宿泊場所がキブツ(後述)であり、訪問観光場所も公的機関が多く出費が限られており、米ドル使用で事が足りると判断したためでである。現地通貨との接触が限られていたのでこの通貨は貴重である。硬貨表面(左側)にはイスラエル国家の公用語であるヘブライ語イスラエルと表示されており、縦にアラビア語でも添え書きされている。現在よりもパレスチナ人との混在地区が多かったためであった時代の共用通貨である。
 スプーンも同様で形状がヨーロッパとは少し趣きを異にしたエキゾチックな雰囲気を持ち、頭部飾りには「嘆きの壁」が描かれ、その上部にはやはりヘブライ語の表示がある。更に最頂部にはユダヤ教のシンボルである聖器具が彫り込まれており、宗教観を漂わせている。

  1970年11月10日(火曜日)イスラエルに入国した。

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テルアビブ空港からキャリアット・アナビブ・キブツへの道中風景

イスラエルは1948年に中東パレスチナの地にユダヤ人が建国した新興国家である。パレスチナ中央部、現在のエルサレム一帯のシオンの丘は旧約聖書時代にユダヤ教の信者が安楽の地とした聖地であるが、幾多の変遷と迫害の中で祖国の地はアラブ人たちの生活圏に含まれて変貌した。
 20世紀に至りパレスチナの地はイギリスの委任統治となったが、その間、ヨーロッパ各地で迫害から逃れたユダヤ人たちが父祖の地に安住を求めてパレスチナへの入植がはじまり、次第にユダヤ人国家国家設立の気運が高まっていた。

 第二次大戦中のナチス・ドイツによる大虐殺ホロ・コーストを経て多くのユダヤ人がパレスチナの地に移住する中でイギリスの委任統治が終了するとともに独立宣言が発せられてユダヤ人の国家が成立した。同時にこれまでの生活権を侵害されたアラブ人との激しい抗争が始まり、第一次中東戦争第二次中東戦争第三次中東戦争と繰り返される中、アメリカ支援の強力な軍事力を背景としたイスラエル側が終始優勢に立ち中東地域に強固な国家体制を築き挙げてきた。

 我々が訪れた1970年は第三次中東戦争が終了して3年が経過したイスラエルが国内体制の整備に向かいつつ、国際的理解を深める目的で日本との交流に意を注ぎつつあった時期で、偶々我々のヨーロッパ視察に相乗りしてイスラエル外務省からの招待が日本生産性本部に寄せられていた。唯第三次中東戦争は終了したもののアラブ・ゲリラの活動は頻発していたので、旅行危険地帯ともみなされ、羽田出発の時点では未確定の儘であったが、ウィーン滞在中に計画実行が確認され、晴れてローマからイスラエルへの渡航が実現した。

 到着したのは地中海に面するテルアビブ空港でイスラエル一番の商業都市であるとともにイスラエルの暫定首都であった。(エルサレムが理想の首都で2020年トランプ大統領が承認したが、国際連合は認めていない)

 空港ではイスラエル外務省職員の出迎えがあり、入国手続きも簡単に通り抜け政府派遣の乗用車で一路宿舎として提供されたキブツに向かったが、途中に通過する谷間の道路脇や樹間などには破壊された大砲や軍用車両が放置されており、戦闘の激しさを伝えていた。

 イスラエルでの滞在は二泊三日と短いが、ホテルではなくキブツに泊まって体験実習をする事になっていた。キブツイスラエル特有の社会形態で、自給自足を原則とする原始共産型集団生活組織である。迫害を逃れたユダヤ人たちがパレスチナの地に入植した生活様式の一つで私有財産を持たない共同生活の場であり、当時イスラエル国内に約200ヶ所存在した。われわれに宿舎を提供してくれたキャリアット・アナビブ・キブツは、第一次世界大戦後の1920年(大正9年)に入植が始まったという古い歴史を持ち、当時住人は指導者以下120人の構成員で共同生活が営まれていた。

 下の写真はキャリアット・アナビブ・キブツの全景である。

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なだらかな丘の中腹に開かれたキャリアット・アナビブ・キブツ

キブツの来訪者用宿舎に二人一室に収まり、早速指導者から施設内の紹介と生活規則など説明を受けたあと、場域内の案内を受けて一巡した。信仰の国だけあってユダヤ教の礼拝堂を中心に集会所、食堂、農器具庫、作物庫は勿論の事、自衛のための武器庫、弾薬庫、防空壕まで完備されていて隔絶されながらも一つの社会単位の形態を保っていた。談話室での住人たちとの懇談で日常生活の有様を聞き、日本人との生活感の相違を感じたりしたが、平和な暮らしを求めるユダヤ人たちの願望が強く滲み出てくるのを痛感した。中東の一画でアラブ社会に強権で臨む現在のイスラエル政権の姿勢とはややはかけ離れた理想郷実現の姿を垣間見たと感じているが、先進ヨーロッパ諸国を周遊した後に、50年を経た現在でも未解決の中東地域に足を踏み入れ現地で体験実習出来た事は大変有意義であった思い返している。

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キブツ談話室での懇談と場内見学と住人との触れ合い