人生の軌跡・流郷松三郎の残思録

米寿に想う我が人生

1970年の秋

初の海外旅行【29】ドイツ訪問(8)東西ベルリン市・その4

 鉄のカーテンに仕切られた東ベルリンへの訪問の衝撃が覚めやらぬ1970年10月29日朝、午前中はフリータイムでホテル近くのデパートKA・DE・WEで念願のモンブラン万年筆と記念スプーン1本を購入した。万年筆は30年間程愛用したが老朽化して所在不明となったが、バラの花を頭部にあしらった金色のスプーンは下に掲示したが、このブログ【3】号のトップ写真では中心部に位置を占めている。

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    ベルリン市訪問記念スプーン

 午後からはバスをレンタルして西ベルリン市内を見学した。昨日東ベルリンの侘しさを経験したばかりのため復興度合いの違いを強く感じたが、それにも益して西側から見た戦争の爪痕と東西分断の痛ましさを行く先々で実感させられた。

 言葉に言い表せないほどの衝撃が次々に襲う中で写真を撮る自由を甘受しつつ記録に

留めたのが以下に掲載する数々のシーンである。

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4ヶ国共同管理地区にあるソ連の戦勝記念碑と戦車(警備兵がいて側までは近寄れない)

 場所はブランデンブルグ門の外側で「6月17日通り」に繋がる広場中央であった。右側戦車の写真の右隅に旗を掲げたブランデンブルグ門が見えている。
 第2次大戦が終わって25年が過ぎていたが、ドイツが連合国軍に徹底的に攻撃され破壊された状況が脳裏に浮かんだ見学であった。

 次の訪れたのは東西ベルリンを遮断した壁と脱走犠牲者の現場であった。

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西ベルリン側の物見台から壁越しに遮断された東ベルリンの家並みを眺望した。

ベルリンの壁は1961年(昭和36年)に東ドイツによって突如設置され、以後東西ベルリンの交通は遮断され、西ベルリンは陸の孤島と化していた。我々が見学に訪れた場所の正確な位置関係は不明であるが、ブランデンブルグ門から南東1.5キロほどにあったチェックポイントチャーリーの少し南に下がった辺りではなかったかと想像している。壁の近くでバスを降り突然現れた壁に道を遮られ、これがベルリンの壁かと胸を突かれつつ壁沿いに歩くと高さ3メートルほどに組まれた木製の物見台が壁に向かって据えられていた。偶々見学者は我々一団のみで交代して台上に登り壁越しに東ベルリンの様子を眺望した。上に掲出した写真3枚がその時の情景である。前日に地下鉄を利用して東ドイツに入国し東ベルリン市内を徒歩で見学し食事も買い物もしているので緊張感は薄れていたが、壁建設による社会活動の遮断という人間性を無視した圧政的行為を目の当たりにした衝撃が改めて体全体に押し寄せた。

 しばし壁内部の家並みや住人たちの移動する光景に目を奪われ釘付けされ、虚しさ侘しさを体感するとその最中に警備の東ドイツ兵がシェパードを引き連れて壁の内部のバリケードを巡視してきた。物見台がそこにあるのは承知していると思われるが警備兵は前方を注視しつつ歩いて行った。

 レンガを積み上げた壁が途切れて今度は住宅が壁代わりになっている箇所が現われた。境界線上の住宅が壊されずそのまま壁に使われていて分断の悲劇が生々しく残されている。そのすぐ前には風雨に晒された花環が侘しく捧げられていた。東側から脱走者がこの場所で射殺された事を標した哀悼碑である。

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住居の外面がそのまま〝壁〟に使われたベルリンの壁と脱走者射殺哀悼の花環

 東西冷戦というイデオロギー覇権の犠牲にされた人民の悲劇を目の当たりにして深い感慨に浸りつつベルリンの壁見学に終止符を打ったが、侘しい環境の中で小さな土産物店が一軒だけ店を開いていた。絵葉書とか色々あったかと思うが咄嗟に目に入ったのはやはりスプーンで、今朝デパートで一本購入済(冒頭写真)であるが、ベルリンの壁の思い出に宿す記念品としてすかさず2本目を購入した。(現物写真は本ブログ【26】の文頭に掲載した。)

 今夜のフライト迄時間が十分あるので少々遠出して郊外のハーフェル湖を訪れた。美しい自然に囲まれた湖には白鳥が多く集い、若い女性が乗馬を楽しんでいたが、ここも東西ベルリンの接点で湖に架かった鉄橋は国境として閉ざされていた。すぐ目の前に見える対岸はポツダム東ドイツの領土である。日本の敗戦に繋がるポツダム宣言が発せられた宮殿は目視出来ないが、橋のかなたにその雰囲気を感じつつ厳しい国境線の掲示板に目を奪われた。

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ハーフェル湖畔の西ベルリン側から国境橋に掛かる掲示を見てポツダムを望む

 1970年10月29日(木)、午後は分断されたベルリンの姿に衝撃の数時間を過ごしたが、途中市内を通過する際にバスの窓から垣間見たベルリンフィルハーモニーの斬新な建物が僅かに沈んだ心に光明を齎してくれたと思い返している。在ベルリン中は日程が合わずクラシック音楽を聴くことは出来なかったが、いつの日か又ベルリンを訪れてベルリンフィルのコンサート聴いてみたいという願望を強く抱きつつ、西ドイツに帰還すべくテンペルホーフ空港に向かうバスに身を委ねた。     

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バスの窓から眺めたベルリンフィルハーモニーホール