人生の軌跡・流郷松三郎の残思録

米寿に想う我が人生

1970年の秋

初の海外旅行【46】イスラエル訪問(3)観光編・嘆きの壁ほか

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写真左・「オリーブの丘」からエルサレム旧市内を望む 右・ユダヤ教シンボル前にて

 1970年11月12日(木)外務省係員B女史の案内でエルサレム市内の旧跡を見学した。旧約聖書以来のユダヤ教キリスト教イスラム教の聖地として世界的に知られた遺跡群地帯で宗教関係者以外の一般人にとっても垂涎の場所である。時あたかも中東紛争のさなかで訪れることが難しい場所であるだけに訪問出来たのが幸せであった。

 最初に訪れたのはイスラエルの国会議事堂(クネセト)で、緑少ない砂丘の上に近代的な建物が建っていた。内部の見学をしたが休会中のため静寂で広いロビーの壁面に懸けられたシャガールタペストリーの豪壮さに引き付けられた。旧約聖書に基ずくモチーフが描かれていたと記憶しているが、建物も含めてアメリカの大財閥ロス・チャイルドの寄付であるとB女史の説明であった。

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         ダビデの門前の景色とヘロデ門内のアラブ地区風景

 聖地エルサレム旧市街は城壁で囲まれた区域で下図に示すように民族・宗教別に区切られている。

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 外務省B女史の案内で地図北側イスラム地区(アラブ人地域)のヘロデ門から入場した。中は雑然とした通路のバザールで上右側の写真のようにパレスチナのアラブ人が商売・生活する一帯であった。狭い通路をくねって出たところがキリストが十字架に張り付けられて運ばれたピアドロローサで➁から③④⑤⑦と通り抜け⑭の聖墳墓教会に到着した。処刑されたキリストが安置され復活した場所である。知らないうちに本陣内に入っていて外景の記憶は少ないが、暗い祭殿の上部に祀られた黄色の裸身キリスト像と祭壇にあった石棺が印象的であった。
 下は聖墳墓教会の外景と内部に祀られたキリスト像の写真である。

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写真がぼけて見難いが中央上部に両手を磔にされたキリスト像が写っている。

 聖墳墓教会を出てからの歩行路は覚えていないが、ヤッフォ門からの通路沿いにユダヤ教徒地区に入り、開けた前面広場正面に高くそそり立つ巨大な石壁を見た。
 世界最古の宗教ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」である。

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 嘆きの壁に触れて祈りをささげるユダヤ教徒たち(写真は女性礼拝区域)

 石積みの下部4段ぐらいまでが旧約時代の遺跡として残る壁であり、中東戦争を経てイスラエルの占領地域となったため多くのユダヤ人が壁と対面出来ることが可能になったと外務省職員の説明であった。

 嘆きの壁は真ん中に置かれた柵で男女別に区域が仕切られていた。(写真柵の左側が男性区域)男性区域の方では長鬚で黒衣に黒帽かシルクハットの信者が時間を忘れて壁に向かって祈りを続けているのに見入ったが、我々も案内女史から黒帽を渡されてユダヤ人に交じって壁に触れ、祈りを捧げて平和を祈願した。

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聖地エルサレムの「嘆きの壁」訪問記念写真 1970年11月12日(水)

 旧市街の遺跡を見学後、ダビデの門から外に出たところで出店があり、土産品を購入した。目玉はイスラエルのスプーンで、これはブログ44号で紹介した。

 下は旧市街見学後に写した記念写真で3日間にわたり接待案内してくれた外務省女性係員B女史も一緒である。

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エルサレム旧市街にて、旅行最後の全体記念写真(11月12日)

 今回のヨーロッパ旅行では訪問した各地で教会を尋ね、美術に親しみ、音楽を鑑賞し、街並みを眺め、人々と会話しながら常にキリスト教文化との接触に関心を抱き続けてきたが、最後になってキリスト生誕と処刑の街である中東イスラエルエルサレムを訪れることが出来たのは宗教史勉強の意味からいってもとても有意義で貴重な経験であったと述懐している。ヨーロッパ諸国周遊参加そのものが当時としては格別に幸運に恵まれた体験であっただけに、私の以後の人生に及ぼした影響は計り知れなく大きな存在であったと認識を持ち続けている。

 イスラエルと別れを告げるに際して外務省高官が昼食会に招待してくれた。テルアビブ市内の一角に設けられたオリエンタル風のパオを模したレストランで、主なメニューはシシカバブーであった。楽しく歓談しながら互いに理解を深めて感謝の意を表したが、50年を経た現在のイスラエルパレスチナ自治共和国の関係を注視する時に、当時我々が感じた謙虚な建国精神が薄れ、力による民族国家復活の様相が強調されすぎていることに大いなる危惧を感じている。

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イスラエル外務省招待による晩餐会1970年11月12日(木)午後

 10月10日に羽田空港を飛び立って34日間、ヨーロッパ9ヶ国と中東イスラエルを公式訪問し、全てのスケジュールを無事に終了した事を喜びながら16時10分テルアビブ・ロッド空港を離陸し帰国の途に就いた。途中で香港に立ち寄り2泊して休息するが実質的な目的は全て完了して晴れやかな気分に満たされた。搭乗機はアメリカ・トランスワールド航空TW740でイランのテヘラン、インドのニューデリー、タイのバンコックに寄港する南周りのルートで香港に飛行する。

 長時間のフライトであるが北回りと違って寄港地での若干の体験も味わった。
 テヘラン空港では、近付いた時の下界の夜景の素晴らしさと、トランジットで立ち寄った空港売店で陳列されていた豪華なスプーンに魅せられたが、手持ち資金を考えて止めた事、ニュデリー空港着陸時には機外の暑さにびっくりして自席に引き返した事、バンコック空港では1人で搭乗して来た若い女性の勇気に感動し会話を交わして楽しかった事等々も長旅の思い出で懐かしい。

 寄港も含めて搭乗時間ほぼ15時間ほどであったか、11月13日(金)13時頃に東洋の真珠と云われていた香港の啓徳空港に無事到着した。