人生の軌跡・流郷松三郎の残思録

米寿に想う我が人生

1970年の秋・・

初の海外旅行【33】オーストリア訪問(1) ウィーン到着編 

 1970年11月1日(日)午前11時30分、オーストリア航空OS402便は高度を下げ、ベルト着用のアナウンスの下に滑走路に向かって降下した。機体が大地に接する瞬間を車輪の衝撃で感じ取り、急制動の成功に強張った身体が解けかけた一瞬後に機内に柔らかな音楽が流れ出た。曲はヨハンシュトラウス作曲の皇帝円舞曲である。流石にウィーンであると感じ入る中、序奏メロディがゆっくりとキャビン全体に行き渡り、機体の徐行に合わせて次第に主部に高揚しワルツのテンポに合わせるようにタラップに到着にした。

 魅惑の都市ウィーンに到着した。音楽の都ウィーンならではの演出で心にゆとりを感じながら6番目の公式訪問国オーストリアに入国した。

  例によって空港の銀行で通貨を両替した。オーストリアの通貨はシリングと補助通貨グロッシェンで1シリング13円85銭であった。旅も半分以上過ぎ手持ちの資金も少なくなりつつあったが、ウィーンでは特別の支出に備えて多額の両替を行った。ウィーン国立歌劇場クラシック音楽愛好者にとって垂涎の場所である。今回の旅行で3泊することが決まっていたので是非機会をとらえて観劇したいと準備を重ねてきた。偶然であったがロンドンでオーケストラの演奏会を聴くことが出来て喜んだが、本場ウィーンではもっと充実した音楽鑑賞を期待した。

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オーストリア補助通貨(50グロッシェン=7円)とウィーンのスプーン(銀製で高価)

 右上写真のスプーンは滞在3日目の11月3日に市内中心部のアンティーク店で購入した。各国各都市で買い続けているが、このスプーンお土産品というよりアンティークに近く銀製で品質的にはこれまででは最高級品である。少し小形で派出ないが頭部飾りの双頭の鷲はハプスブルグ家の紋章で正にウィーンを象徴するスプーンである。

 ウィーンでの宿舎はウィーン南駅に面したホテル・プリンツ・オイゲンで市内中心部から少し離れていたがベルベデーレ宮殿のすぐ側に位置した閑静な場所であった。ベルベデーレ宮殿プリンツ・オイゲン公の夏の離宮であるが、ナポレオン失脚後のウィーン会議で華やかな饗宴の舞台となった宮殿としても有名で世界にその名を馳せていた。

 到着の翌日早朝に早起きして散歩がてらに訪れ前庭から入り込み人気のない宮殿を一巡りしたのが懐かしいが、その時に写した写真が残っていたので下に一緒に掲示した。

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左・ウィーン南駅、中・ホテル周辺外景(中央付近)、右・ベルデベーレ宮殿

 

1970年の秋

初の海外旅行【32】ドイツ訪問(11)おにぎりとドイツ便り

 1970年11月1日(日)午前10時20分、フランクフルト空港からオーストリア航空OS402便で次の訪問地オーストリアの首都ウィーンに向けて飛び立った。今回のヨーロッパ訪問で一番長い一週間の滞在となったドイツに別れを告げたが、離陸前の搭乗待合室で嬉しいハプニングが待っていた。

 ルフトハンザのユニフォームに身を包んだK嬢がにこやかに現れ、別れの挨拶と共に一包みの紙袋を差し出した。中身は何とおにぎりで団員全員に行き渡るよう10個入っていた。今朝出勤前に握ったという事で未だ温かみの残る紙包みを有難く頂戴した。当時ドイツで生活する日本人にとってお米は勿論の事、海苔などの日本食材は貴重品であった筈であるが、我々団員の為に故国の味を届けてくれた優しい気持ちと労力に深く感謝し、音楽で培った友情の深さに強く感動した瞬間で有難く頂戴した。

 離陸後早速紙包を開き日本の香りに接した時の嬉しさは今でも忘れられないが、団員一同打ち揃ってヨーロッパ上空の機内でおにぎりを食べた光景はさぞ異色であったであろうと思い返している。

 ドイツ滞在中に各都市から会社・労働組合その他知人友人に旅行報告の絵葉書を送り続けていたが、留守宅の家族にもこの時3通送っている。帰国後に自分も見たいので保存を依頼していたが幸い処分されずに今まで残っていた。50年前に妻や子供に出したハガキも懐かしいのでブログにも留めておくことにした。

 下の写真は何れも西ベルリンで購入した絵葉書で2枚はベルリンの壁で1枚は西ベルリン市内の昼間と夜の景色である。続いてそれぞれの絵葉書に書いて送った文面である。

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絵葉書表面、左・西ベルリン市内風景、中央・ポツダム広場の壁、右・ベルリンの壁眺望台

 

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絵葉書文面、留守宅家族・妻と子供二人に送った3枚の旅行・近況報告

 

 

1970年の秋

初の海外旅行【31】ドイツ訪問(10)フランクフルトその2

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フランクフルトで2泊したホテル全景・周囲の環境が素晴らしかった。(絵ハガキ

1970年10月30日(金)午前・午後と31日(土)午前中にかけ公式行事が3回設定されており市内各地を移動した。市電・郊外電車・徒歩と精力的に動き回り役所・公共施設で会議・見学・会食と訪問団本来の目的に没入した。

 出掛けたのはフランクフルト市ごみ焼却場、同下水処理場などの現場施設と金属労働連合(IGメタル)本部会館で、いずれの箇所でも社内食堂でのランチを提供され働く人々との交流が深まった。

 ドイツでの公式訪問はフランクフルトで終了したが各都市・各組織を通じて問題・課題に対処するドイツ人の真面目な態度に感銘を受ける事が多かった。

 勤勉性の面でも日本人と通ずる事を感じ、第2次大戦の敗戦国同士という感情も加わって親愛度が増したのを覚えている。

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IGメタル(金属労働連合)との真剣な会議(1970年10月31日(土)午前)

 1970年10月31日(土)午後3時半、ルフトハンザ航空勤務のK嬢と約束したデートの時間がやって来た。公式行事をすべて終了した安堵感で団員一同市内見学タイムとなったが、私一人は単独行動を願って偶々午前中に訪れたIGメタルの程近くにあるルフトハンザ航空タウンオフィスに赴いた。

 彼女が先に来ていて事務所の中から出て来たような気がしているが、今度は平服の日本女性の姿で再び目の前に現れた。

 彼女が会社を辞めドイツに移住する時には全然関知していなかったので、時を経てヨーロッパの地で偶然にも会う事など夢にも思っていなかったが、映画や小説にあるようシーンが自分にもあるのだなという面映ゆい感情に撃たれつつ再会を祝し合ったた記憶が残っている。彼女と私はクラシック音楽仲間同士という間柄で仕事上の関係は存在しなかった。

 私は昭和30年(1955)頃に全国規模に結成・展開した勤労者音楽協議会労音)活動に積極的に参加し、会社内にサークルを作り若手社員を勧誘して隔月一回開かれる例会(音楽演奏会)を楽しんだ。会社も従業員の情操教育の一環として理解を示していたので入会者が多く、一時は200人を超す大サークルに成長した。会費の徴収をはじめ入場券の配布などの手間仕事を職場ごとの代表者に委ねたが、K嬢もその一人として支援して呉れた音楽愛好家であった。一緒に聴くチャンスもないまま退職されてしまい、その後は風の頼りでウィーンフィルに憧れてヨーロッパに移住したと聞いていた。そんな彼女との再会はベートーベンやモーツアルトが天から与えて呉れた爽やかな恵みのプレゼントであると心から喜び感謝した。

 与えられた時間を大切に思いながら彼女の案内で市内のメイン道路や公園を散策し名所を紹介され由緒ある名店で休息歓談した。

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フランクフルトの名所ハウプト・ヴァッヘ広場(中央赤い建物がカフェ・ハウプト・ヴァッヘ)

 海外に移住して久しい彼女にとって昔の職場や同僚の消息は関心事であり、、一方の私はドイツでの生活や本場ヨーロッパの音楽情報は話題新鮮であった。次々に話題が飛び交い散策中も景色が眼に入らなかったがオペラ劇場の建物、ゲーテハウスとゲーテ像、それに大聖堂を案内してもらったをうろ覚えに残っている。

 散策して出て来た所が上の写真のハウプト・ヴァッヘ広場で 中央赤い建物のカフェ・ハウプト・ヴァッヘのテラス・テーブルでティータイムを楽しんだ。日本でもなじみのユーハイムが経営する店で美味しいケーキと紅茶で時間を忘れて歓談した。

 気が付くと時計は午後7時を指していた。K嬢は明日は早朝6時からの勤務のため積もる話を切り上げてロマンチックな海外デートを終了した。カイザー大通りをフランクフルト中央駅まで戻ったところで彼女に駅構内の理髪店へ連れて行ってもらいそこでお別れとなったが、予期していなかっただけに貴重な再会に音楽のきずなを痛感した。

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上はフランクフルト中央駅前景である。

K嬢と別れ調髪したあとタクシーてホテルに一人で帰還した。 

 

 

 

1970年の秋

初の海外旅行【30】ドイツ訪問(9)フランクフルト・その1

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フランクフルトのスプーン(1970年10月30日購入)

 冷戦下の東西ベルリンへの衝撃訪問を終え、1970年10月29日(木)19時05分テンペルホーフ空港をテイクオフして西ドイツへの帰路についた。向かう先はフランクフルトである。当夜の航空会社はやはり戦勝4か国のうちのエールフランス航空で思わぬ空域でフランス語の案内が飛び交った。往路のような超低空飛行でなかったのは行き先がソ連圏ではないからであったと思ったが、その分緊張感もなく1時間のフライトで定刻にフランクフルト空港に着陸した。

 すっかり暗くなった広い空港通路を抜けロビーに出た所で日本出国時から頭の片隅に仕舞いこんでいた一つのチャンスにチャレンジした。数年前まで同じ会社に勤務し同じ趣味で音楽鑑賞活動に参加していた或る女性がウイーンフィルの日本来演を機にクラシックの本場であるドイツ・オーストリアに憧れ、遂に自分も移住し、その後ドイツのルフトハンザドイツ航空に就職したという噂を同僚女性らから聞いていた。事実関係を確かめた訳でもなく、また勤務している場所も全く分からない状態であったが、フランクフルト空港は西ドイツ一番の国際空港であり、ドイツを代表するルフトハンザ航空の本拠地である。

 日本人女性社員の存在はまだ珍しい時代であるので分かるのではないかと考えて、団長の了解を得た後に思い切ってルフトハンザ航空のカウンターに全員で立ち寄り、カウンター・レディに日本人K嬢の在勤存否を聞いてみた。何と彼女は空港の職場仲間として知れ渡っており、すぐにその日の勤務場所に電話をかけて私に取り次いだ。

 電話口で私が名乗ると懐かしい声で〝えー!!・流郷さん? すぐ行くからそこで待っていて下さい!〟と叫んで受話器がカウンター・レディに戻された。

 待つ事10分程か。ルフトハンザ航空の黄色の制服に身を包んだK嬢が颯爽と現れた。5年振りぐらいであろうか、嘗て同じ会社で働いていた頃とはすっかりイメージを変えた国際女性が目の前の表れて私をはじめ団員一同偶然の出会いに驚いた。懐かしさを込めて来訪の目的を知らせ互いの健康と活躍を祝福したあと、私の公式日程スケジュールと睨み合わせ、彼女から明後日は夜出勤で夕方出勤するまで時間が空くのでその間のデートを打診され、団長以下仲間の承認を得て喜んで受け入れた。50年前の事ではっきり覚えていないが、午後3時半ごろにマイン川畔にあるルフトハンザ航空オフィス玄関が待ち合わせ場所であったと記憶している。

 ヨーロッパ旅行の途中で奇跡のような出会いに胸がときめいた後、一同揃って空港からタクシーに乗り込み当夜の宿泊地ホルストハウス・グラベンブルックという難しい名前のホテルまで夜のフランクフルト郊外を疾走した。

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フランクフルト郊外に建つホルストハウス・グラベンブルック・ホテル

高級リゾートホテルで宿泊費が高く、予算10ドルを遥かにオーバーした。

 

 

 

 

1970年の秋

初の海外旅行【29】ドイツ訪問(8)東西ベルリン市・その4

 鉄のカーテンに仕切られた東ベルリンへの訪問の衝撃が覚めやらぬ1970年10月29日朝、午前中はフリータイムでホテル近くのデパートKA・DE・WEで念願のモンブラン万年筆と記念スプーン1本を購入した。万年筆は30年間程愛用したが老朽化して所在不明となったが、バラの花を頭部にあしらった金色のスプーンは下に掲示したが、このブログ【3】号のトップ写真では中心部に位置を占めている。

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    ベルリン市訪問記念スプーン

 午後からはバスをレンタルして西ベルリン市内を見学した。昨日東ベルリンの侘しさを経験したばかりのため復興度合いの違いを強く感じたが、それにも益して西側から見た戦争の爪痕と東西分断の痛ましさを行く先々で実感させられた。

 言葉に言い表せないほどの衝撃が次々に襲う中で写真を撮る自由を甘受しつつ記録に

留めたのが以下に掲載する数々のシーンである。

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4ヶ国共同管理地区にあるソ連の戦勝記念碑と戦車(警備兵がいて側までは近寄れない)

 場所はブランデンブルグ門の外側で「6月17日通り」に繋がる広場中央であった。右側戦車の写真の右隅に旗を掲げたブランデンブルグ門が見えている。
 第2次大戦が終わって25年が過ぎていたが、ドイツが連合国軍に徹底的に攻撃され破壊された状況が脳裏に浮かんだ見学であった。

 次の訪れたのは東西ベルリンを遮断した壁と脱走犠牲者の現場であった。

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西ベルリン側の物見台から壁越しに遮断された東ベルリンの家並みを眺望した。

ベルリンの壁は1961年(昭和36年)に東ドイツによって突如設置され、以後東西ベルリンの交通は遮断され、西ベルリンは陸の孤島と化していた。我々が見学に訪れた場所の正確な位置関係は不明であるが、ブランデンブルグ門から南東1.5キロほどにあったチェックポイントチャーリーの少し南に下がった辺りではなかったかと想像している。壁の近くでバスを降り突然現れた壁に道を遮られ、これがベルリンの壁かと胸を突かれつつ壁沿いに歩くと高さ3メートルほどに組まれた木製の物見台が壁に向かって据えられていた。偶々見学者は我々一団のみで交代して台上に登り壁越しに東ベルリンの様子を眺望した。上に掲出した写真3枚がその時の情景である。前日に地下鉄を利用して東ドイツに入国し東ベルリン市内を徒歩で見学し食事も買い物もしているので緊張感は薄れていたが、壁建設による社会活動の遮断という人間性を無視した圧政的行為を目の当たりにした衝撃が改めて体全体に押し寄せた。

 しばし壁内部の家並みや住人たちの移動する光景に目を奪われ釘付けされ、虚しさ侘しさを体感するとその最中に警備の東ドイツ兵がシェパードを引き連れて壁の内部のバリケードを巡視してきた。物見台がそこにあるのは承知していると思われるが警備兵は前方を注視しつつ歩いて行った。

 レンガを積み上げた壁が途切れて今度は住宅が壁代わりになっている箇所が現われた。境界線上の住宅が壊されずそのまま壁に使われていて分断の悲劇が生々しく残されている。そのすぐ前には風雨に晒された花環が侘しく捧げられていた。東側から脱走者がこの場所で射殺された事を標した哀悼碑である。

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住居の外面がそのまま〝壁〟に使われたベルリンの壁と脱走者射殺哀悼の花環

 東西冷戦というイデオロギー覇権の犠牲にされた人民の悲劇を目の当たりにして深い感慨に浸りつつベルリンの壁見学に終止符を打ったが、侘しい環境の中で小さな土産物店が一軒だけ店を開いていた。絵葉書とか色々あったかと思うが咄嗟に目に入ったのはやはりスプーンで、今朝デパートで一本購入済(冒頭写真)であるが、ベルリンの壁の思い出に宿す記念品としてすかさず2本目を購入した。(現物写真は本ブログ【26】の文頭に掲載した。)

 今夜のフライト迄時間が十分あるので少々遠出して郊外のハーフェル湖を訪れた。美しい自然に囲まれた湖には白鳥が多く集い、若い女性が乗馬を楽しんでいたが、ここも東西ベルリンの接点で湖に架かった鉄橋は国境として閉ざされていた。すぐ目の前に見える対岸はポツダム東ドイツの領土である。日本の敗戦に繋がるポツダム宣言が発せられた宮殿は目視出来ないが、橋のかなたにその雰囲気を感じつつ厳しい国境線の掲示板に目を奪われた。

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ハーフェル湖畔の西ベルリン側から国境橋に掛かる掲示を見てポツダムを望む

 1970年10月29日(木)、午後は分断されたベルリンの姿に衝撃の数時間を過ごしたが、途中市内を通過する際にバスの窓から垣間見たベルリンフィルハーモニーの斬新な建物が僅かに沈んだ心に光明を齎してくれたと思い返している。在ベルリン中は日程が合わずクラシック音楽を聴くことは出来なかったが、いつの日か又ベルリンを訪れてベルリンフィルのコンサート聴いてみたいという願望を強く抱きつつ、西ドイツに帰還すべくテンペルホーフ空港に向かうバスに身を委ねた。     

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バスの窓から眺めたベルリンフィルハーモニーホール

1970年の秋【28】

初の海外旅行【28】ドイツ訪問(7)東西ベルリン市・その3

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東ベルリン側から見たブランデンブルグ門とウンター・デン・リンデン 1970年10月28日

 10月28日(水)午前10時頃、地下鉄フリードリヒ・シュトラッセ駅の国境検問所から東ドイツ国内に入りしばらく歩くとブランデンブルグ広場に到着した。雨にもやったブランデンブルク門から続くベルリンの壁をかすかに望見すると、遂に我々は壁を越えて東ベルリンに来たという実感が湧いてきた。駅から広場までは短い距離であったが寂れた様子で人通りもなく瞬くうちに西ベルリンとの活気の差を痛感した。

 上の写真は広場入り口付近から遠望したブランデンブルグ門と広場から直結するウンター・デン・リンデン(〝菩提樹の下〟という意味の大通り)である。水曜日の午前中という時間帯であるが双方の写真に人影は皆無である。雨天の為かとも思ったがそれにしても不気味な静寂感が漂っていた。
 ブランデンブルグ門の写真に写った自動車が周囲の雰囲気にマッチしない高級感を放っていることに違和感を覚えながら広場中央まで進んだら、正面にきらびやかに装飾された大きな建物が出現した。ドイツ語通訳先生の説明でソ連大使館である事が判明したが広いブランデンブルク広場を睥睨するように威厳を放っていたのが印象的であった。

 ウンター・デン・リンデンは戦前からベルリン市のシンボルでパリのシャンゼリゼ大通りに匹敵する街路である。1970年当時はソ連大使館をはじめ東ドイツ政府諸官庁やフンボルト大学、国立歌劇場、歴史博物館などの文教施設が軒を並べていた。確認した訳ではないが、上の右側の写真は多くの車が駐車している様子から東ドイツ政府当局や東ベルリン市諸官庁の建物であると思われた。

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ウンター・デン・リンデン フンボルト大学からテレビ塔を望む 修学旅行?の女生徒一行

 一日ビザで入国したが東ベルリン市の観光情報は持ち合わせず、中心街を徒歩見学することで一決し歩き出した。ウンター・デン・リンデンの官庁街を外れた所に有名なフンボルト大学があり、背後に聳えるテレビ塔を入れて記念写真を撮影した。こちらも人影はなく駐車する車と道路の水溜まりに映える建物の影が淋しげである。官庁街を抜けだした処で初めて人影に接したのが上右写真の女子生徒集団であった。雰囲気から修学旅行の女生徒一行と推測したが、雨の中で気温も下がっていたが質素な衣類を身に着け素足を出して歩く姿に健気さを痛感した。

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左・シュプレー川畔のベルリン大聖堂 中と右・国営百貨店とお土産に買った押し花額

  雨のウンター・デン・リンデンを歩き、右側に寂れた感じの国立歌劇場、左側に歴史博物館を眺めたあと水路を過ぎて巨大な教会が前を遮るように現れた。上左写真のベルリン大聖堂である。50年前のバカチョン・カメラで1枚だけ撮った写真で、帰国後に現像してみなければ良否は分からない訳であるが、結果はみじめで豪壮な外形だけしか映っておらず残念であった。

 時間が丁度お昼時になりシュプレー川の橋のたもとに適当なレストランを見付けて腰を落ち着けた。地元の先客が10数人いて入室する我々日本人団体を注視する視線に冷ややかさを感じたが、彼らの表情に明るさがないのが気になった。会話を交わす雰囲気はなく、また壁の中の共産圏国家という恐怖感も手伝って互いに無言で終始した。

 ウエイターが来てメニューを紹介したが、チョイスの結果亀のスープを薦められ、冷え切った体を温めた。高価な料理であったのか覚えていないが、それぞれ東ドイツマルクを集めて支払ったような記憶が残っている。

 小雨が続く中アレキサンダー広場まで足を進め周辺を見学した。広場中央には東ベルリンのシンボルであるテレビ塔が建っていた。1969年に建造されたので我々の訪問時は新築ほやほやで、上部に円形の展望台を持つ高さ365メートルの鉄塔はパリのエッフェル塔をしのぐヨーロッパ最高の威容を誇っていた。フンボルト大学の写真の背景にその姿を見ることが出来るが、果たして市民が展望台から西ベルリン地区を眺望できたのかどうかは知らぬままである。

 アレキサンダー広場に面して建つ国営百貨店(上の写真中央の建物)に入り、店内を見物しながら土産物を物色した。電化品や日用品は一応揃っているが品数が少なく粗雑な作りが目立っていた。西ドイツと較べて極端に違うのが衣料品で素材も悪いが色彩感に乏しくデザインもディスプレイも拙劣であった。

 全般的に品質が悪いのでお土産に叶う品が見付からないが、東ベルリン訪問記念として不可欠であると同時に東ドイツマルクを消費することが求められている。再交換出来ないので帰りの交通費を残して使い切るために見付けたのが民芸品であった。一番多く並んでいたのが木彫りの熊でベルリンのマスコットでもある事からお土産になると見込んで数個購入した。スプーンを探したが見当たらないので止む無く選んだのが上の写真右側に掲出した額入りの押し草花であった。正方形の方はパンジーの花びらのようでカラフルであったが、粗末な長方形の額に収まった植物は野菊のような草花で乾燥も十分でないため帰国後しばらくして色が黒ずんだ。お土産には使えず自分の思い出用として今でも書斎の片隅に場所を得ている派手ない飾り物である。

 全く不愛想で事務的な百貨店員とのやり取りのほかには東側のドイツ人との会話機会はなく、予定時間を過ごしたので帰路についたが思わぬハプニングに見舞われた。アレキサンダー広場近くから国境駅のフリードリヒ・シュトラッセ駅に向かうSバーン乗車時に頼みのドイツ語通訳とコーディネーター先生の二人に乗り違えられ、団員9人がホームに残された。路線も不案内で言葉も通じず携帯電話のない時代で連絡不可能となり不安のどん底に落されたが、兎に角次に来た電車に乗り込んだ。緊張しながら次の駅のプラットホームに先生二人が心配そうに待っていたのを見付けた時は正に地獄で仏に会った思いの帰還劇であった。

 フリードリヒ・シュトラッセ駅で東独兵の検問を受け地下鉄に乗車、廃墟の駅を通過した後に西ベルリン地区に入り、クーダム近くの駅で降車した。すっかり暮れた街並みにはネオンの照明が輝いていた。

 ホテルに帰着した後、揃ってディナーに出掛けたが、東ベルリン見聞・体験の衝撃が強烈でその夜の会話行動は霧の中に飛散した。

 

 

 

 


 

 

 

 

 

1970年の秋【27】

初の海外旅行【27】ドイツ訪問(6)東西ベルリン市・その2

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西側地区から写したブランデンブルク門(1970年10月29日)

 1970年10月28日水曜日、東西冷戦の象徴都市ベルリンは雲が深く垂れ込み今にも雨が降りそうな朝を迎えていた。昨夜到着後の打ち合わせで初日の今日に東ベルリン行きを決定し気持ちを整えていた。我々が選んだ入国方法は地下鉄利用であった。

 先に述べたが1949年(昭和24年)に東西ドイツが分裂建国されベルリン市は西側地区を抱えたまま東ドイツ国内に陸の孤島として残された。その上で西ベルリン地区への逃亡を恐れた東ドイツ当局が1961年に至り突如ベルリン市の東西境界線に壁を設置して市民の通行を完全に遮断した。西ベルリン市民は勿論の事、西ドイツ国民の東東ベルリン地区への立ち入りは不可能となり、交通路も閉ざされた。

 但し第三国人の入国は国際法に則れば可能である。その中で東西ベルリン市の場合、東西ドイツの緊張関係から東側から西側への入国は絶対駄目であったが、西側から東側への観光客の入国については制限付きながら特別なルートと方式で許されたいた。

 本シリーズ【24】で簡単に紹介しているが、一つは専用観光バス利用による方式で、こちらはベルリンの壁の中間地点に設けられた国境検問所チャーリー・ポイントで検問を受け、バス乗車のまま東ベルリ

 

ン地区に進入して車内から市内を見物し、途中土産物の商店と主要観光地でのみ下車が許される入国方法である。

 今一つが地下鉄利用による入国である。ベルリン市が東西に分割統治された際、地上交通は遮断されたが、西ベルリン地区始発・終着で途中東ベルリンの地下を通る地下鉄は原則通過することだけが許された。東ベルリン地区内に設けられていた駅は廃墟とし東ドイツ兵が警備した。但し特殊な例外として路線が交差する乗換駅では厳重な乗換専用通路を設けて乗客の乗り換えのみを許可したが、その際に当該駅に国境検問所を設け東ドイツに入出国する外国人に対処した。

 東ベルリンの中心地であるウンターリンデン通り(文頭写真のブランデンブルグ門に面している)にほど近いフリードリヒ・シュトラッセ駅が特殊駅で西ベルリンのUバーン(地下鉄)とSバーン(都市鉄道)が交差する乗換駅であり、地上には国境検問所が設置されていた。

 下に1970年当時のフリードリヒ・シュトラッセ駅を中心とした東西ベルリン地下鉄路線図(一部関係地区のみ)を掲載した。

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1970年・東西分割統治下のベルリン市地下鉄路線図(一部)

 地図上の濃いイエローが西ベルリン地区で、右側薄いイエローが東ベルリン地区である。中央やや下、緑色のSバーンと藍色のU6が交差する駅がフリードリヒ・シュトラッセ駅である。すぐ左にはSバーンのウンター・デン・リンデン駅があるが、フリードリヒ・シュトラッセ駅を除き東ベルリン地区内にあるすべての駅には廃墟(乗降禁止)を示す白線マークが表示されている。

 ボン市エーベルト研究所担当者が是非にと勧めてくれたのがこのフリードリヒ・シュトラッセ駅経由の入国で、新たに加わったドイツ語専用通訳(西ドイツ在住日本人)をを含め11人の団員全員心を引き締め、ホテル近辺のUバーン乗り場から壁の下を通り抜け共産圏に向けて発進した。

    途中数か所で徐行するたびに廃墟と化した無人駅を通過した。東独警備兵の姿は見なかったが不気味な感じを持ちながら見過ごすうちに目的地フリードリヒ・シュトラッセ駅に到着した。かなりの人員が降車したように感じたが、地上に通ずる階段を登ったのは我々を含めて少数であったと記憶している。

 

 

 正規の手続きを経ての入国であるから恐怖感は無かったが、東西冷戦が熾烈を極めていた時代の共産圏、中でも東西ベルリンの国境検問という意識が若干の緊張感を齎せ簡単な質問にも真剣に回答して無事一日入国のビザを得た。

 その際に入国要件である通貨の交換が強制的に行われ、100西ドイツマルクを提出し、100東ドイツマルクを受け取った。出国時に余っても再交換出来ないので使い切ることが前提である。当然のことながら双方の通貨価値には雲泥の差が存在した。通貨は双方ともマルクで補助貨幣はペニッヒである。実勢がどの程度であったのか分からなかったが、東ドイツ側はドル交換で固定レートが安定している西ドイツマルクを入国者から強制的に徴収することを貴重な外貨獲得の手段としていた。

 下は東ベルリンで釣銭として残ったペニッヒと西ドイツのペニッヒで同じ単位であるが価値には大きな格差が存在した。

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   東ドイツの10ペニッヒ硬貨       西ドイツの2ペニッヒ硬貨

 東独兵監視下の検問所で入国審査を受け無事通過して地上に出た。
 眼前に広がる光景に空虚な寂寥感を覚え、周囲に警戒感を配りつつ遠景を撮影した。

 下の写真が東ベルリン側から眺めた雨に煙るブランデンブルグ広場である。

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  雨に煙るブランデンブルグ広場の光景  1970年10月28日午前写す