人生の軌跡・流郷松三郎の残思録

米寿に想う我が人生

1970年の秋【26】

初の海外旅行【26】ドイツ訪問(5)東西ベルリン市・その1

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西ベルリン市のスプーン・1970年10月29日ベルリンの壁前で購入

 1970年10月27日午後7時にデュッセルドルフ空港から西ベルリンに向けて飛び立った。搭乗機はルフトハンザ機ではなくBE英国航空1466便であった。

 東西冷戦の真っ只中で東西ドイツ鉄のカーテンで仕切られ、双方の交通路は制限されていたため西ドイツの飛行機が東ドイツの上空を通り西ベルリンへ行くことは出来なかった。西ドイツからの発着で許されたのは戦勝国であった米・英・仏3連合国の飛行機に限られた。我々も思わぬところで英国航空利用となったが、終始低空飛行が続き、ソ連支配下の共産圏上空という意識も手伝って緊張感が漲ったフライトであった。

 凡そ1時間の飛行で無事西ベルリンに到着したが、着陸した空港は嘗てベルリン封鎖空輸大作戦で有名になったテンペルホーフ空港であった。

 

 

 私がまだ高校1年生であった1948年(昭和23年)6月、当時東ドイツ地域を占領していたソ連が東西対立抗争の切り札として地域内にあるベルリン市を封鎖した。
 ベルリン市はソ連を含めた戦勝4ヶ国が共同区分管理する特別市で、封鎖により生活物資の輸送を止められた米、英、仏3ヶ国管理地区(いわゆる西ベルリン地区)は陸の孤島となり、200万人の市民が閉じ込められた。

 これに対抗したのが米英両国主体によるによる物資大空輸作戦で、約1年間に亘り延べ278228機の輸送機を使って生活物資を送り続けて西ベルリン市を維持させた。

 下図と写真は当時の東西分割区分におけるベルリン空路と大空輸作戦の模様である。

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当時のドイツ分割統治とベルリン市への空路・空輸作戦とテンペルホーフ空港

 大空輸作戦成功後の1949年(昭和24年)に東西ドイツ地区はそれぞれドイツ連邦共和国(西ドイツ)とドイツ民主共和国(東ドイツ)として分裂建国し、私たちが訪れた1970年当時も厳しい冷戦を続けているまま対峙していた。

 東西冷戦の歴史的大事件であった象徴的な場所がテンペルホーフ空港であった事をよく覚えていたので、これから訪れる西ベルリンと東ベルリンへの思いを深刻に予測しながらタラップを降りたのが蘇ってくる。

 西ベルリンでの滞在は足かけ3日間で、ホテル・ハンブルグと名付けられた中クラスのホテルに投宿した。場所を正確に覚えていないが周辺は未整備のようで、KA・DE・WEというデパートが遠望出来た記憶がある。

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ホテルの部屋から眺めた西ベルリン市街地とKA・DE・WE百貨店(1970年10月)

 西ベルリンでの公式会議はなく専ら国情の視察・見学が主目的であった。併せてエーベルト研究所で勧められた東ベルリン市(東ドイツ)への入国見学実現を目指していた。

 

 

 今回の視察旅行の中間点で且つ山場に相当するのがドイツ訪問で中でもベルリンは名実ともに核心的な場所となっていた。どんな光景が我々の眼前に展開するのか、東ベルリンに上手く入れるのか緊張感が団員一同に去来する中で一夜が明け行動を開始した。