人生の軌跡・流郷松三郎の残思録

米寿に想う我が人生

1970年の秋

初の海外旅行【40】イタリア訪問(2)ローマ観光編・ヴァチカン

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        ローマのスプーン

 各訪問地で買い集めて来たスプーンの中では柄部の細工が繊細で美しい。頭部飾りに嵌め込まれた建物の絵はヴァチカンの大聖堂であるから厳密にはローマではないが、上部にローマとネーミングされており一心同体といったところである。購入した場所もヴァチカンであるが、ローマ入りした証拠のスプーンを確保し一先ずは目的達成の気持ちが漲った。

 ローマでの宿舎はクラリッジ・ホテルと称した中クラスのホテルであったが、場所は判然とせず滞在中の記憶も残っていない。イタリア入国が週末金曜日であったので公式行事は週明け月曜日に設定されており、土・日の二日間は古都の観光に専念した。

 ローマは旧市街地そのものが歴史遺産でどこを歩いても史跡・旧跡にぶつかるが、その中で特に存在感を示すのがヴァチカンのピエトロ大聖堂であり、フォロロマーノの眺望であり、コロッセオの威容であり、トレビの泉の郷愁などと数えきれないし、スペイン広場やテルミナ駅などの新人気スポットも欠かせない観光地となっていた。到着した日の夕方にホテルに近かったポポロ広場の高みからローマに全景を眺望したが一際目立ったのがやはりヴァチカンの大聖堂の大屋根で、翌11月7日(土)の観光コースが自然に固まった。

 記憶が薄れてはっきり思い出せないが移動には小型バスをチャーターしたはずで、まずはヴァチカン市国に赴いた。相当手前で降車して歩いて大聖堂前広場に到着し、先ずミケランジェロによって円型に仕切られた円柱回廊の造形美に魅せられた。聖堂前広場には敷地一杯に椅子が並べられた居たので何かの祝祭準備かと思われた、通り過ぎて本陣に足を踏み入れるやその荘厳な大空間に心身ともに圧倒されたのを思い出す。

 ヨーロッパを訪れると決まった時、歴史文化への関心が高まったが、その柱となるのがキリスト教であると認識して各地で教会を訪れて体感的な雰囲気を味わって来た。イギリス・ロンドンではウエストミンスター寺院とセントポール大聖堂を訪れ、フランス・パリではノートルダム大聖堂の屋根上テラスからセーヌ川を眺め、ドイツ・ケルンではライン河畔に建つ大聖堂の威容とベルリン・シュプレー川畔のベルリン大聖堂に戦争の暗い影を感じて瞑想したのが蘇ってくる。音楽の都ウィーンのシンボルであるセント・シュテファーヌ寺院が高い尖塔を市内に誇示する中、ほの暗い内陣で聴いたミサ曲の美しい歌唱に心を洗われた思いも格別であった。

 スイスに渡って訪れたジュネーヴではプロテスタントの犠牲者にまつわる史跡も訪ねてキリスト教の辿った歴史も垣間見てやって来たのがヴァチカンで、カトリックの総本山であるピエトロ大聖堂はやはりキリスト教文化の一大聖地であると実感した。

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ヴァチカン広場とピエトロ大聖堂(1970年11月7日写す)

 大聖堂の高い丸天井の内側に回廊がしつらえられており、人が渡っている光景にしばし目を取られたが、荘厳な祭壇に祈りを捧げたあと脇陣に安置されていたピエタ像に魅せられた。
 ミケランジェロの傑作「嘆きのピエタ」で世にある数あるピエタ像の中では群を抜く名作であり、美しい造形は勿論の事、精神と気品に満ち溢れている。

 大理石の艶肌も滑らかで、抱きかかえたイエスキリストを悲しくも優しい眼差しで眺める聖母マリアの表情は言葉では言い表せえない麗しさであった。

 当時は真近かで鑑賞出来たがその後数年後に心無い暴漢により腕の部分を壊され、以後は厳重な隔離鑑賞となり、近付くことは不可能となっている。

 大聖堂から右側の回廊を通りシスティナ礼拝堂に向かうが途中に有る物・見るものすべてが歴史的工芸品で正に全体が美術館であった。ミケランジェロ生涯の大作であるシスティナ礼拝堂の天井画にまたまた圧倒され感激のうちにヴァチカン参詣観光を終了した。 大聖堂を出て正面左側の通路で店開きしていた土産物店に「嘆きのピエタ像」の模型を見付けて購入した。

 下に掲示したが流し石膏のお土産品であるが、大理石まがいの肌触りでマリアの表情も本物を模して穏やかであるところなど大変気に入っており、50年を経た現在でも我が居室の飾り棚の中央で静かに周囲を見守っている。

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お土産に購入したピエタ

 

1970年の秋

初の海外旅行【39】イタリア訪問(1)ローマ到着

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ハイジャック厳重警戒のジュネーヴ国際空港。小銃で構える警備兵と搭乗前の手荷物検査

 1970年11月6日(金)12時25分スイス・ジュネーヴ国際空港を離陸してヨーロッパ最後の訪問国イタリアに向けて飛び立った。搭乗機はアリタリア航空AZ409便でチューリッヒに途中寄港する。日本出発以来各国の航空会社を乗り継いできたが、日航、スカンジナヴィア航空、サヴェナ航空、エールフランス航空、ルフトハンザドイツ航空、ブリティッシュエアウェイズ、オーストリア航空と国毎に特徴ある飛行機に乗ってきて今度が9番目のアリタリア航空であり、ローマの次のイスラエルまで地中海を横断する。

 ジュネーヴ国際空港は折からのチューリッヒ空港におけるハイジャック発生で厳戒態勢で離陸したが、アリタリア航空の機内は至って平穏でスティワーデスもイタリア人特有の陽気な態度で乗客サービスに徹していた。機長も同様で、飛行中コックピットのドアが開け放しでスティワーデスが自由に出入りしており、我々客席から操縦席を通してフロントガラス越しに空が見えるなど驚きのフライトであった。
 チューリッヒに向かう機中からの眼下に広がるアルプスの光景が美しくカメラに収めたのが下の写真である。

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 眼下のスイスアルプス大氷河・アリタリア航空機中より

 1970年11月6日(金)午後5時、ヨーロッパ最後の訪問国イタリア・ローマのレオナルドダヴィンチ空港に到着した。公式訪問国としては8番目でいよいよ旅行も最終段階に近付いていた。ローマでは公式会議も設定されているが、何といっても2000年の歴史を持つ永遠の都ローマをはじめ古代史に満ち溢れた観光・見学の都市である。日程的にも4泊で名所旧跡を訪ねる事が可能であるように組まれていた。

 例によって空港で通貨の両替を行ったが、リラ紙幣を受け取った途端に団員各位から笑い声が飛び交った。紙幣のサイズが大きすぎて札入れに入らない。ご存知米ドルは小さいサイズで収納便利であり、やや大きなイギリス・ポンドも、又西ドイツ・マルクやフランス・フランも日本の財布に収納出来たが、イタリア・リラばかりは巨大すぎて折り曲げて入れるしか方策がなく始末が悪かった。

 イタリアはインフレ渦中でリラの価値も訪問国中では一番低く、1リラ=58銭(ドル換算は0.016)であったため受取り額面が膨大で一瞬大金持ちになったような錯覚に陥った。紙幣は使い切ったため見本が無いが10リラのアルミ硬貨(5円80銭)を記念として持ち帰ったので下に掲示した。

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イタリアの通貨10リラ(5円80銭)直径24ミリ

ルネサンスの巨人レオナルドダヴィンチの名前を冠した空港に感激のうちに到着し、遂にローマにやって来たという実感を得たのが市内に通ずる街道脇に植えられている松の木との邂逅であった。世に名高いローマの松の並木が眼前に展開した。

 イタリアの作曲家レスピーギの代表作ローマ三部作の一曲である「ローマの松」が私のローマ観の根底の一つにあり、イメージを蓄えてローマにやって来た。

 バスの車窓から眺めるローマの松に限りない愛着を感じつつシャッターを切ったのが下の写真で、私のローマ到着の宣言であった。

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   ローマの松・レオナルドダヴィンチ空港から市内に向かう街道で写す。

            1970年11月6日・ローマ到着

 

1970年の秋

初の海外旅行【38】スイス訪問(3)ジュネーヴ・買い物編

 1970年11月5日(木)午前中にILO訪問を済ませ午後からはフリーである。

 ジュネーヴのホテル到着早々に時計店セールスマン招待のシヨン城観光を受けた見返りで、市内の時計店へ団員打ち揃って訪れた。場所はモンブラン橋を渡った旧市街に近い位置であったと記憶している。

 ヨーロッパ視察旅行参加が決まった時、自分の土産として予ねて念願であったオメガの腕時計購入を目指してそれなりの資金を用意して来た。買うなら当然スイスであるからセールスマンの勧誘は現地事情に疎い旅行者にとっては渡りに舟であったとと思っている。時計店の店構えも品揃えも店員の応対も正常で信用のおける店と判断したので団員一同思い思いに品定めに専念している様子が伺えた。

 当時私はセイコーのゴールド・フェザーという中級の腕時計を長年身に付けていたので出来ればそれ以上のグレードの機種入手を狙っていたが高級と云われるロレックスなどは高根の花であった。そこでポピュラーであるか品質評価の高いオメガに狙いを定めて購入したのが下の写真のオメガ・デヴィルであった。

 日本にはまだない中級の新機種で値段も予算範囲内で購入したが、帰国後に調子が悪くなり百貨店の時計売り場に見せたら、本国のスイス送りとなり、凡そ2ヶ月後に手元に戻ってきた。気候条件が合わなかったといとうのが不調の原因で調整したと説明されたが、その後は全く故障せず、40年間使い続けた後にリューズが摩耗して遂にリタイアした。

 時計も50年経過すればアンティークとして通用すると云われているので、専門家に修理してもらえばそれなりの価値が出るのではないかと思っている。

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自分用のお土産として購入した腕時計オメガ・デヴィルと市内公園の花時計

 時計店での買い物を済ませた後は解散となり個々に旧市内などの散策を楽しんだ。
オメガ・デヴィルが予算を下回り少し余裕が出たのであと一つ買いたいものが浮上してひとりでレコード店に赴いた。今回のヨーロッパ訪問で望外のクラシック音楽体験をさせてもらったが、欲を言えばオペラが主体で本場ドイツでオーケストラの演奏会を聴きたいと願っていた。ロンドンでバイエルン放送管弦楽団の演奏を聞いているが、ベルリンがウィーンでも超一流のオーケストラが聴けたら最高だと密かに思っていた。残念ながらその機会は無かったが、今年はベートーベン生誕200年の年でもあり、せめてヨーロッパを去るに際して記念になるレコードを購入したいという気持ちが強くなっていた。

 レコード店には日本とは較べものにならないほど多種類のクラシックレコードが並べられており選択に迷ったが、自分でもまだ揃えていないベートーベンの交響曲全集に的を絞り込み店員と相談しながら白羽の矢を立てたのがカラヤン指揮ベルリンフィルハーモニー管弦楽団演奏の新録音盤セットであった。

 下に8枚入りのケースとレコードを掲載した。

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ベートーベン交響曲全集

ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮 ベルリンフィルハーモニー管弦楽団演奏

 初めての交響曲全集版の購入で充実した気分を味わったが、重量と嵩張りから手荷物となり、既にパリで購入していたモンマルトルの絵2枚と共に持ち帰りには苦労した。

 日本帰国の1970年11月から今年2021年1月までの50年間、時ある毎に聴き続けており、ヨーロッパ初旅行のの回想とベートーベンへの想いを重ね合わせて人生の来し方を偲んでいる。

1970年の秋

初の海外旅行【37】スイス訪問(2)シヨン城観光編

 スイスは世界中の人々が憧れる観光立国である。ジュネーヴ空港に降り立った瞬間から豊かな自然景観が眼前に展開したのを覚えている。観光地見物として特別に予定した所は無かったが、許されたスケジュールの中で景観の一端に触れることが出来るであろうと期待していた。ところが思わぬハプニングの出来でレマン湖畔を巡る半日観光が実現した。

 1970年11月4日ジュネーヴのホテルド・ラ・ペに到着しチェックインを済ませた時にコーディネーター先生のもとに若い日本人男性が訪ねて来て面談した。市内の時計店に勤めるの客引きセールスマンで、我々滞在中に時計店に買い物に来てくれることを条件にマイクロバスでシヨン城まで観光案内をするという話を持ち込んで来た。

 団員の殆どがスイスで時計を買う心づもりでいたので申し入れに賛同して即刻バスに乗り込んだ。時間は午後の3時頃であったと思われるが、シヨン城がどんなところか、どのくらいの時間がかかるのかも分からずのままで出発した。レマン湖を右に視て快走したが紅葉した山々を越えて白銀の雪山のコントラストが美しく、広い箱庭の中を突っ走るような快感を覚えたドライブで、やがてオリンピックの建物のあるローザンヌを通過した。レマン湖の北岸に至ると道が狭くなり崖が迫って樹木が垂れ下がっていたが次第に建物が多くなり趣きのある街並みに到着した。湖東に位置するモントルーという街であった。

 下にレマン湖の地図を掲出した。目指すシヨン城はモントルーを通過してすぐの湖岸に突き出るように位置していた。

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レマン湖 左下ジュネーヴから右奥シヨン城まで直線距離約70キロ、迂回距離約90キロ

 シヨン城の歴史は古く、12世紀に地元の領主によって整備されて以来のレマン湖岸の要衝で、16世紀にはスイス宗教改革者のフランソワーズ・ボニヴァルが幽閉された監獄としても有名である。イギリスの詩人バイロンの「シヨンの囚人」で知られる悲劇の場所であるが、自然の中に佇むその美しさが又素晴らしいことなどを紹介されながら湖畔の古城に到着した。

 他の観光客の姿はなく簡単に城内に入れたが、時間が遅かったためか展示品室や居住区には入れず城壁内部の戦闘区分の見学だけで終了し外に出た。日は西に傾きかけていたがせめてもの記念にと湖面際を廻り込み、城壁の夕景を捉えてカメラに収めたのが下の左側に掲出した写真である。西に沈む夕日に暗い影が僅かに城壁を映し出し見えない湖面を思わせる構図は撮影者だけの若き日の感傷である。

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黄昏せまるシヨン城の外壁と12世紀以来の優美な姿を湖面に落すシヨン城

 時計セールスマンの思わぬ誘いで実現したシヨン城に別れを告げ一路ジュネーヴに帰着した時は、遅い夕食タイムを迎えていた。全員打ち揃ってレマン湖と反対側の新市街へ繰り込みレストランを捜し歩いた先に目に留まったのは中華料理の懐かしい店構えであった。

 ウィーンを出発する時、空港への道すがら郊外の公園(映画第三の男で有名)などの見物をしてきたので午前午後2回の観光見物となり疲れも溜まっていた。その分を美味しいワインと久し振りの中華の味で潤して明日へに英気を養った。

 

 

 

1970年の秋

初の海外旅行【36】スイス訪問(1)ジュネーヴ到着と公式会議

 1970年11月4日(水)11時15分ウィーン空港からオーストリア航空OS211便に搭乗し、午後13時40分スイスのジュネーヴ空港に着陸した。

 途中眼下に眺めたオーストリア、ドイツ、スイスと続く峻険なアルプスと氷河の光景が見事であった。

 到着後、例によって両替を行った。下の写真は左がスイス通貨の½フランである。1フランの円換算は82円33銭であったから41円の価値であった。小型なコインであったが品格を有しているのが特徴であった。
 右はジュネーヴのスプーンで滞在中に市内の土産物店で購入した。頭部飾りにはめ込まれた鷲と鍵をデザインした絵柄はジュネーヴの紋章であると思われる。ヨーロッパ到着以来すべての都市でスプーンを漏れなく買い続けており、初志貫徹に間近い感に包まれた。

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スイスフラン½(1970年)とジュネーヴのスプーン

 ジュネーヴの空港から市内に通ずる道路は枯葉の季節を迎えた街路樹が美しく、遥かにモンブランの雪景色と重なり自然の庭園を満喫する景観を味わった。宿はレマン湖畔のド・ラ・ペというモンブラン橋のすぐ手前に建つ風光明媚な高級ホテルであった。
 1泊10ドルはとても無理であろうと覚悟してのチェックインであったが、コーディネーター先生の絶妙な交渉術が効を奏して予算内で決着し喜んだ。

 下はレマン湖に架かるモンブラン橋から眺めたホテルド・ラ・ペの全景とフロント外壁での待ち合わせ風景でえある。

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モンブラン橋から眺めたホテル・ド・ラ・ぺ(中央木立の左建物)と外で外出を待つ団員

 スイス・ジュネーヴでは2泊3日の滞在で、国際連合下部機関であるILO(国際労働機関)事務局での公式会議がセットされていた。翌11月5日にILOに赴き労使関係諸問題について日本人駐在員を交えて事務局員との意見交換を有意義のうちに終了し、そのあと旧国際連盟本部であるパレ・デ・ナシオンに赴き職員食堂で昼食を楽しんだあと庭内を散策した。

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ILO(国際労働機関)の建物とパレ・デ・ナシオンの庭(レマン湖モンブランを望む)

 奇麗に整備された庭園からはレマン湖越しに遥かモンブランの鋭鋒が眺望されヨーロッパの中庭を彷彿させていた。散策するにつれ枯葉が舞い落ちて足元に寄り添うので形の良い葉を数枚選んで拾い集め記念に持ち帰った。

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パレ・デ・ナシオンの庭で拾った枯葉

(1970年11月5日拾集・2020年12月30日スキャン)

 

1970年の秋

初の海外旅行【35】オーストリア訪問(3)オペラ鑑賞編

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音楽の都のシンボル、当時のウィーン国立歌劇場全景ときらびやかな夜景

 オーストリアの首都ウィーンはクラシック音楽の聖地である。今回のヨーロッパ訪問スケジュールでウィーン3泊が決まった時から、本場で生の音楽に接する機会を得ようと心に決めて勇躍出発した。50年前まだ海外での音楽鑑賞ツアーなどなかった頃で現地に行かなければチケット入手が困難な時代であったが、私には大きな幸運が齎されていた。フランクフルトで偶然会う事の出来たK嬢同様に会社のクラシック音楽仲間T嬢がやはりドイツに移住しミュンヘンで生活を始めていた。彼女も労音の会員であったと同時に人事部の教養課員で私が社内で主催していたレコード・コンサートのレコード購入や会場手配などの担当として業務上での接触を有していた。偶々私のヨーロッパ訪問が計画途上にあった頃にドイツに移住したが、私の出発間際になって現地からスケジュールを知らせて欲しいと書かれた絵葉書が送られてきた。

 ドイツの何処かで音楽を一緒に聴く機会を見付けて旅行中の私に連絡すると書かれていたので、宿泊予定ホテル名を明記した日程表を急遽羽田空港ポストで投函し、彼女からの連絡を待っていた。

 ベルリン滞在2日目の10月28日夜、ホテルの自室にT嬢から待望の電話があり、11月1日午後にウィーンに出向くので待機していてほしいとの連絡を受けた。当日ウィーン入りし団員一同宿舎のプリンツ・オイゲンホテルにチェックインした直後フロントにT嬢からの電話が入り、当日のウィーン国立歌劇場のチケットを購入した事の連絡を受けた。ヨーロッパの音楽シーズンは秋から冬にかけて盛大に開催される慣わしで、ウィーンでも毎夜国立歌劇場でオペラが上演されていた。そんな中でタイミング良くオペラ観劇が出来る事の喜びを痛感したが、用意してくれたチケットの演目が又素晴らしかった。ワーグナー作曲楽劇『ニーベルングの指環』第2夜「ジークフリート」であった。超大作4部篇の第3作目で予てからワーグナーの音楽に心酔していた私にとっては垂涎の演目である。大作ゆえに日本では聴き得ないオペラを本場ウィーンで到着早々に聴ける幸運を神に感謝するような気分で喜び、その夜T嬢の案内で勇んで鑑賞した。

 休憩時間を含め上演が5時間の大作で終演の午後10時近くT嬢と別れ一人で市電に乗りホテルに帰着したが、同室の仲間が寝ずに待っていてくれた事に感謝した。今回の旅行でクラシック音楽に興味を持つ人が他に居なかった為、ロンドンでも一人で出掛けたが、ウィーンが音楽の都であるに関わらずまたまた一人だけの鑑賞となって団体行動から外れる事になり、団長はじめ仲間の皆さんに丁重にご容赦を願い出た。

 フランクフルトでのK嬢と言い、今度またウィーンでのT嬢との出会いが重なり、団員一同から羨望の眼を投げかけられが、双方ともクラシック音楽を通じた友情と親愛が齎した偶然の巡り合わせであり、現地在住の二人の女性に深く感謝した次第である。

 ウィーンでのオペラ鑑賞は滞在日数一杯の3夜に及び、音楽人生の喜びを満喫した。 

 第1夜、ワーグナー作曲楽劇「ジ-グフリード」 国立歌劇場 座席1階中央

 指揮者 ホルスト・シュタイン

 ジーグフリード ハンス・ベイヤー
 ブリュンヒルデ ベリット・リンドホルム

 その他 テオ・アダム ゲルハルト・シュトルツ等出演

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ホルスト・シュタインジークフリートのプログラアム

 第2夜、プチーニ作曲歌劇「トスカ「」国立歌劇場 座席右側桟敷席

 指揮者・歌手の記録資料なし・記憶なし

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第2夜、1970年11月2日 歌劇トスカの入場券

第3夜、ヴェルディ作曲 歌劇「ドン・カルロ」国立歌劇場 座席2階サイドボックス

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第3夜、1970年11月3日 歌劇ドン・カルロの入場券

 指揮者 ホルスト・シュタイン(前々日にジーグフリードを指揮している)

 ソプラノ グンドゥラ・ヤノヴィッツ
 テノール フランク・コレルリ
 その他  ヴィレッテ・タルベラ出演

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ウィーン国立歌劇場のプログラムとプリマドンナグンドゥラ・ヤノヴィッツ

 ヨーロッパ公式訪問途上のウィーンで3夜連続して本場のオペラを鑑賞出来たのは本当に幸せであった。チケットを手配し、案内ししてくれたT嬢に心から感謝してお別れした。特に3日間の滞在中にワーグナーのドイツオペラとプチーニとヴェルディのイタリアオペラの最高傑作を続けて鑑賞出来た事に感激したが、この三日間は後にも先にもなかった我が音楽人生の最大イベントであったと思い返している。

1970年の秋

初の海外旅行【34】オーストリア訪問(2)公式行事の部

    オーストリアでは公式行事が3回セットされていた。小国のわりに3日滞在で訪問先も多く予定されたのが意外であるが、穿った見方をすればウィーンでの観光や音楽鑑賞のために日程に余裕をみてくれた配慮かも知れなかった。

 到着翌日の11月2日(月)午前中はオーストリア労働厚生省において公式会議が開催された。公害問題と労使関係が議題とされ相手は女性の政務次官が対応しハイレベルな意見交換と質疑応答が繰り広げられたのが印象的であった。

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オーストリア労働厚生省の建物と会議風景(中央奥の女性が政務次官

   午後はオーストリア労働総同盟(OGB)との会議がセットされており、それに先立ち先方様より昼食会に招待された。場所がホテル・ド・フランスという一流ホテルのレストランで、お昼であるがコース料理の豪華な雰囲気を楽しんだ。日本出発前に名古屋に集合しホテルでテーブルマナーを勉強して来た事を思い出しながら、国際色豊かなランチタイムを経験した。ランチ接待後、場所を変えてオーストリア労働総同盟(OGB)との会議が開催されオーストリアの労使関係や公害対策等について説明を受け、日本の状況などの意見交換を行い相互理解が深まった。

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オーストリア労働総同盟との会合、左・ホテルでの昼食会場の様子、右・会議風景

 下は会議終了後、労働総同盟事務所屋上で撮影した記念写真である。

 全員元気で、これからも頑張るぞ! という気概に溢れていた。

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