人生の軌跡・流郷松三郎の残思録

米寿に想う我が人生

1970年の秋

初の海外旅行【47】香港・帰国前の休養と観光

 1970年11月13日(金)午後⒔時頃、香港の啓徳国際空港に着陸した。海側から街の上空に入り、混み合った民家すれすれに降下して高台にあるような滑走路に着地したが、広いヨーロッパの空港と較べて狭く危なく感じた空港であった。

 我々が香港に立ち寄ったのはヨーロッパ公式訪問の疲れを癒すための休養が目的で会議の設定はない。当時流行り出した日本人の海外旅行先としてハワイと共に香港が人気が出始めていたので、帰路に立ち寄り観光がてら免税の土産品調達が出来たのは大変恵まれていた。

 滞在は2泊3日で九龍半島側に新しく建てられたホンコン・ホテルであった。ホテルは近代的な洋式であるが、一歩外に出た繁華街のネイザンロードはヨーロッパとも中東とも趣きを異にした中華色一杯の大観光街路で金製品をはじめとした土産物店が軒を揃え人が多く正に壮観盛観であった。

 ヨーロッパ各国で買い続けて来たのでスプーンを探してみたが、なかなか見付からず習慣が違うのかと諦めかけたところで、一軒の狭い貴金属店でそれらしき形状のものが見付かった。

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    銀製の香港スプーンと1香港ドル貨幣

 スプーンはヨーロッパとは形状を異にしているが、香港でも購入出来たことにより旅行中のすべての滞在地記念が揃った事になり、コレクションとして初期の目標達成を喜んだ。

 翌11月14日(土)は香港島側にわたり、終日観光を楽しんだ。まだ地下鉄は開通しておらずホテルサイドの桟橋からフェリーに乗って対岸の香港島につくのも大変風情のある体験で旅の疲れを癒すのに大いに役立った。特に中国特有の帆船ジャンクが往き来する香港湾の光景は一幅の海洋画で香港への郷愁を湧き立てていた。

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 九龍側から香港島を望む    船に乗って香港島へ    香港の街並み散策

 フェリーで香港島にわたり波止場周辺を散策した後、タイガーバーム・ガーデンを見物し、ヴィクトリア・ピークからの眺望を絶賛し、南側に面する保養地レパルス・ベイから海岸に降りて潮の香りも堪能して英気を養った。

 昼食で立ち寄ったレストランではヨーロッパ各地で便利に会食した中華とは異なる本格的中華料理の濃厚な味に対面した他、夜に出掛けたアバディーンの船上海鮮料理は素朴な味付けながら絶品で海外ラスト・ディナーの思い出となった。

 夜遅くホンコン・ホテルに帰着し、荷作りを再確認し、明日はいよいよ日本帰国であると胸に念じつつ海外旅行最後の眠りに入っていった。

1970年の秋

初の海外旅行【46】イスラエル訪問(3)観光編・嘆きの壁ほか

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写真左・「オリーブの丘」からエルサレム旧市内を望む 右・ユダヤ教シンボル前にて

 1970年11月12日(木)外務省係員B女史の案内でエルサレム市内の旧跡を見学した。旧約聖書以来のユダヤ教キリスト教イスラム教の聖地として世界的に知られた遺跡群地帯で宗教関係者以外の一般人にとっても垂涎の場所である。時あたかも中東紛争のさなかで訪れることが難しい場所であるだけに訪問出来たのが幸せであった。

 最初に訪れたのはイスラエルの国会議事堂(クネセト)で、緑少ない砂丘の上に近代的な建物が建っていた。内部の見学をしたが休会中のため静寂で広いロビーの壁面に懸けられたシャガールタペストリーの豪壮さに引き付けられた。旧約聖書に基ずくモチーフが描かれていたと記憶しているが、建物も含めてアメリカの大財閥ロス・チャイルドの寄付であるとB女史の説明であった。

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         ダビデの門前の景色とヘロデ門内のアラブ地区風景

 聖地エルサレム旧市街は城壁で囲まれた区域で下図に示すように民族・宗教別に区切られている。

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 外務省B女史の案内で地図北側イスラム地区(アラブ人地域)のヘロデ門から入場した。中は雑然とした通路のバザールで上右側の写真のようにパレスチナのアラブ人が商売・生活する一帯であった。狭い通路をくねって出たところがキリストが十字架に張り付けられて運ばれたピアドロローサで➁から③④⑤⑦と通り抜け⑭の聖墳墓教会に到着した。処刑されたキリストが安置され復活した場所である。知らないうちに本陣内に入っていて外景の記憶は少ないが、暗い祭殿の上部に祀られた黄色の裸身キリスト像と祭壇にあった石棺が印象的であった。
 下は聖墳墓教会の外景と内部に祀られたキリスト像の写真である。

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写真がぼけて見難いが中央上部に両手を磔にされたキリスト像が写っている。

 聖墳墓教会を出てからの歩行路は覚えていないが、ヤッフォ門からの通路沿いにユダヤ教徒地区に入り、開けた前面広場正面に高くそそり立つ巨大な石壁を見た。
 世界最古の宗教ユダヤ教の聖地「嘆きの壁」である。

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 嘆きの壁に触れて祈りをささげるユダヤ教徒たち(写真は女性礼拝区域)

 石積みの下部4段ぐらいまでが旧約時代の遺跡として残る壁であり、中東戦争を経てイスラエルの占領地域となったため多くのユダヤ人が壁と対面出来ることが可能になったと外務省職員の説明であった。

 嘆きの壁は真ん中に置かれた柵で男女別に区域が仕切られていた。(写真柵の左側が男性区域)男性区域の方では長鬚で黒衣に黒帽かシルクハットの信者が時間を忘れて壁に向かって祈りを続けているのに見入ったが、我々も案内女史から黒帽を渡されてユダヤ人に交じって壁に触れ、祈りを捧げて平和を祈願した。

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聖地エルサレムの「嘆きの壁」訪問記念写真 1970年11月12日(水)

 旧市街の遺跡を見学後、ダビデの門から外に出たところで出店があり、土産品を購入した。目玉はイスラエルのスプーンで、これはブログ44号で紹介した。

 下は旧市街見学後に写した記念写真で3日間にわたり接待案内してくれた外務省女性係員B女史も一緒である。

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エルサレム旧市街にて、旅行最後の全体記念写真(11月12日)

 今回のヨーロッパ旅行では訪問した各地で教会を尋ね、美術に親しみ、音楽を鑑賞し、街並みを眺め、人々と会話しながら常にキリスト教文化との接触に関心を抱き続けてきたが、最後になってキリスト生誕と処刑の街である中東イスラエルエルサレムを訪れることが出来たのは宗教史勉強の意味からいってもとても有意義で貴重な経験であったと述懐している。ヨーロッパ諸国周遊参加そのものが当時としては格別に幸運に恵まれた体験であっただけに、私の以後の人生に及ぼした影響は計り知れなく大きな存在であったと認識を持ち続けている。

 イスラエルと別れを告げるに際して外務省高官が昼食会に招待してくれた。テルアビブ市内の一角に設けられたオリエンタル風のパオを模したレストランで、主なメニューはシシカバブーであった。楽しく歓談しながら互いに理解を深めて感謝の意を表したが、50年を経た現在のイスラエルパレスチナ自治共和国の関係を注視する時に、当時我々が感じた謙虚な建国精神が薄れ、力による民族国家復活の様相が強調されすぎていることに大いなる危惧を感じている。

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イスラエル外務省招待による晩餐会1970年11月12日(木)午後

 10月10日に羽田空港を飛び立って34日間、ヨーロッパ9ヶ国と中東イスラエルを公式訪問し、全てのスケジュールを無事に終了した事を喜びながら16時10分テルアビブ・ロッド空港を離陸し帰国の途に就いた。途中で香港に立ち寄り2泊して休息するが実質的な目的は全て完了して晴れやかな気分に満たされた。搭乗機はアメリカ・トランスワールド航空TW740でイランのテヘラン、インドのニューデリー、タイのバンコックに寄港する南周りのルートで香港に飛行する。

 長時間のフライトであるが北回りと違って寄港地での若干の体験も味わった。
 テヘラン空港では、近付いた時の下界の夜景の素晴らしさと、トランジットで立ち寄った空港売店で陳列されていた豪華なスプーンに魅せられたが、手持ち資金を考えて止めた事、ニュデリー空港着陸時には機外の暑さにびっくりして自席に引き返した事、バンコック空港では1人で搭乗して来た若い女性の勇気に感動し会話を交わして楽しかった事等々も長旅の思い出で懐かしい。

 寄港も含めて搭乗時間ほぼ15時間ほどであったか、11月13日(金)13時頃に東洋の真珠と云われていた香港の啓徳空港に無事到着した。

1970年の秋

初の海外旅行【45】イスラエル訪問(2)公式行事

 1970年11月11日(水)午前から午後のかけて公式行事が設定されていた。

 朝キブツに外務省の女性係員が迎えに到着し。乗用車でテルアビブに直行し、イスラエル生産性研究所にて所長のI氏と面談した。下の写真はその時の会議風景である。

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イスラエル生産性研究所での会議、イスラエルの社会組織等紹介

 建国して僅か23年目で、しかもアラブ諸国に囲まれ3度の激しい戦争を経てようやく平穏を迎えつつあった時期で、経済も資源も乏しい中で建国の理念実現に努力する意気込みが感じられ、熱心に傾聴した。ヨーロッパやアジアにはない社会組織で、まだ実験段階を抜け切らない状態も感じられたが、キブツで一泊して住人と歓談して来た後だけにイスラエル国家の仕組みが概略理解できた会議であった。

 場所を訓練センターに移して入植者に対する農作業や工場業務などの訓練の仕組みを紹介された後、賃金制度についての説明も受け午前中の会議を終了した。

 市内のレストランで昼食となったが、地元の新聞記者が同席して取材形式の会食となった。日本生産性本部派遣の視察団来訪に高い関心が寄せられていたようであったが、質問内容はあまり覚えていない。対応は団長の仕事でコーディネーター先生の通訳で無事終了したようで、あとはワインを飲みながら歓談した。下の写真がその時の取材風景である。

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  テルアビブのレストランにおける新聞記者取材風景

 午後はイスラエル労働者総同盟(ヒスタトルド)に赴き、特殊な労働組織について説明を受けた。

 会議終了後キブツに帰着し夕食の提供を受けた後、外務省からの出迎えでエルサレム市内に赴き石作りの古い劇場で民族舞踊の催しに招待された。満員の観客席中央に案内され場内放送で日本の労働組合代表と紹介されて驚かされたが、オリエンタルカラー豊かな音楽と振り付けの民俗ダンスに異国情緒を存分に味わった。演目の最後で舞台上に呼び出され一緒に円舞させられたが、なんとも行き届いた楽しい接待であった。

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エルサレムの古代劇場における民族舞踊の会招待と舞台上の円舞1970年11月11日夜

 

1970年の秋

初の海外旅行【44】イスラエル訪問(1)入国とキブツ宿泊

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イスラエル通貨10アゴロット貨幣とエルサレムのスプーン(嘆きの壁

  上左側の写真は1970年当時のイスラエル硬貨10アゴロットである。当時の通貨はポンドで、アゴロットは補助通貨であった。(現在の通貨は新シェケルである)

 1ポンドが102円86銭でドル換算は0.29であったから写真の硬貨は約10円相当の価値である。写真右側にイスラエルでのお土産スプーンを掲載したが有名な「嘆きの壁」訪問記念で壁の前の広場で店開きしていた売店での購入である。硬貨の10アゴロットはその時に貰った釣銭である。

 イスラエルでは入国に際して通貨交換を行わなかったと記憶している。宿泊場所がキブツ(後述)であり、訪問観光場所も公的機関が多く出費が限られており、米ドル使用で事が足りると判断したためでである。現地通貨との接触が限られていたのでこの通貨は貴重である。硬貨表面(左側)にはイスラエル国家の公用語であるヘブライ語イスラエルと表示されており、縦にアラビア語でも添え書きされている。現在よりもパレスチナ人との混在地区が多かったためであった時代の共用通貨である。
 スプーンも同様で形状がヨーロッパとは少し趣きを異にしたエキゾチックな雰囲気を持ち、頭部飾りには「嘆きの壁」が描かれ、その上部にはやはりヘブライ語の表示がある。更に最頂部にはユダヤ教のシンボルである聖器具が彫り込まれており、宗教観を漂わせている。

  1970年11月10日(火曜日)イスラエルに入国した。

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テルアビブ空港からキャリアット・アナビブ・キブツへの道中風景

イスラエルは1948年に中東パレスチナの地にユダヤ人が建国した新興国家である。パレスチナ中央部、現在のエルサレム一帯のシオンの丘は旧約聖書時代にユダヤ教の信者が安楽の地とした聖地であるが、幾多の変遷と迫害の中で祖国の地はアラブ人たちの生活圏に含まれて変貌した。
 20世紀に至りパレスチナの地はイギリスの委任統治となったが、その間、ヨーロッパ各地で迫害から逃れたユダヤ人たちが父祖の地に安住を求めてパレスチナへの入植がはじまり、次第にユダヤ人国家国家設立の気運が高まっていた。

 第二次大戦中のナチス・ドイツによる大虐殺ホロ・コーストを経て多くのユダヤ人がパレスチナの地に移住する中でイギリスの委任統治が終了するとともに独立宣言が発せられてユダヤ人の国家が成立した。同時にこれまでの生活権を侵害されたアラブ人との激しい抗争が始まり、第一次中東戦争第二次中東戦争第三次中東戦争と繰り返される中、アメリカ支援の強力な軍事力を背景としたイスラエル側が終始優勢に立ち中東地域に強固な国家体制を築き挙げてきた。

 我々が訪れた1970年は第三次中東戦争が終了して3年が経過したイスラエルが国内体制の整備に向かいつつ、国際的理解を深める目的で日本との交流に意を注ぎつつあった時期で、偶々我々のヨーロッパ視察に相乗りしてイスラエル外務省からの招待が日本生産性本部に寄せられていた。唯第三次中東戦争は終了したもののアラブ・ゲリラの活動は頻発していたので、旅行危険地帯ともみなされ、羽田出発の時点では未確定の儘であったが、ウィーン滞在中に計画実行が確認され、晴れてローマからイスラエルへの渡航が実現した。

 到着したのは地中海に面するテルアビブ空港でイスラエル一番の商業都市であるとともにイスラエルの暫定首都であった。(エルサレムが理想の首都で2020年トランプ大統領が承認したが、国際連合は認めていない)

 空港ではイスラエル外務省職員の出迎えがあり、入国手続きも簡単に通り抜け政府派遣の乗用車で一路宿舎として提供されたキブツに向かったが、途中に通過する谷間の道路脇や樹間などには破壊された大砲や軍用車両が放置されており、戦闘の激しさを伝えていた。

 イスラエルでの滞在は二泊三日と短いが、ホテルではなくキブツに泊まって体験実習をする事になっていた。キブツイスラエル特有の社会形態で、自給自足を原則とする原始共産型集団生活組織である。迫害を逃れたユダヤ人たちがパレスチナの地に入植した生活様式の一つで私有財産を持たない共同生活の場であり、当時イスラエル国内に約200ヶ所存在した。われわれに宿舎を提供してくれたキャリアット・アナビブ・キブツは、第一次世界大戦後の1920年(大正9年)に入植が始まったという古い歴史を持ち、当時住人は指導者以下120人の構成員で共同生活が営まれていた。

 下の写真はキャリアット・アナビブ・キブツの全景である。

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なだらかな丘の中腹に開かれたキャリアット・アナビブ・キブツ

キブツの来訪者用宿舎に二人一室に収まり、早速指導者から施設内の紹介と生活規則など説明を受けたあと、場域内の案内を受けて一巡した。信仰の国だけあってユダヤ教の礼拝堂を中心に集会所、食堂、農器具庫、作物庫は勿論の事、自衛のための武器庫、弾薬庫、防空壕まで完備されていて隔絶されながらも一つの社会単位の形態を保っていた。談話室での住人たちとの懇談で日常生活の有様を聞き、日本人との生活感の相違を感じたりしたが、平和な暮らしを求めるユダヤ人たちの願望が強く滲み出てくるのを痛感した。中東の一画でアラブ社会に強権で臨む現在のイスラエル政権の姿勢とはややはかけ離れた理想郷実現の姿を垣間見たと感じているが、先進ヨーロッパ諸国を周遊した後に、50年を経た現在でも未解決の中東地域に足を踏み入れ現地で体験実習出来た事は大変有意義であった思い返している。

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キブツ談話室での懇談と場内見学と住人との触れ合い

 

 

1970年の秋

初の海外旅行【43】イタリア訪問(5)公式会議とカタコンブ見学

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イタリア労働連盟CISLでの会議風景とランチタイム

 1970年11月9日(月)、週明けとなりイタリアでの公式行事である会議が設けられていた。相手側はイタリア労働連盟CISLで議題はこれまでと同様の公害問題と労使関係の意見交換・情報交換であった。既に西欧先進諸国で会議を進めて来ていたので問題点の共通意識が通じ合い和やかなうちに進行したが、南欧という地域特性からか、いずれの問題も対策遅れが目立ち、特に大気汚染についての関心度がまだ低いのが感じ取られたと記憶している。具体的にはローマ市内における遺跡に対する汚染対策が不十分ではないかとコロッセオなどの管理状態を見ての感想が残された。

 この会議を以ってヨーロッパでの公式会議を終了した。あと1ヶ国イスラエルへの訪問が残っていた。第三次中東戦争が終わって間もないため訪問の可否が日本出発時には未定であったが、ウィーン滞在中に入国許可が知らされて明日ローマからイスラエルに向けて出発する。ヨーロッパ最後とイスラエル訪問決行の気分盛り上げで市内のレストランに赴き盛大にランチを楽しんだ。

 午後にはローマ郊外のカタコンブを訪れた。初期キリスト教布教時代の信者の地下集会礼拝場である。暴君ネロによって弾圧された信者が潜んだ洞窟として2000年の歴史を今に伝える遺跡でとしてあまりにも有名である。

 ポーランドの作家シェンキェーヴィチの小説「クオ・ヴァディス〈主よ、何処へ〉」の舞台として知られ、またロシア5人組の作曲家ムソグルスキーの名曲「展覧会の絵」の一曲〈カタコンブ〉の旋律は真に迫る雰囲気を発している。期待を胸に一同小型バスで アッピア街道を通って現地に到着し、今も残る地下の礼拝場で当時の信仰と信者の苦難に思いを馳せて瞑想した。下はその時に写した記念写真である。

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     ローマ郊外の初期キリスト教遺跡・カタコンブにて

1970年の秋

初の海外旅行【42】イタリア訪問(4)ナポリポンペイ遺跡

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ナポリ市街の眺望と遥かなるサンタ・ルチア

 1970年11月8日(日)一日観光でバスをチャーターし、イタリア半島を南下、ナポリポンペイ遺跡見学に出発した。季節は晩秋を迎えていたが温暖で南北に長いイタリアでは紅葉は余り見かけずローマから南では周辺の景色も緑に満たされていた。
 確か太陽道路と云ったと記憶しているが、ドイツのアウトバーンとは比較にならない通常の国道で、それでも直線が多いためバスは快速で疾走した。

 途中一帯は平原地帯で田園風景が多い中、一際目立った山岳に目を奪われたが,第2次世界大戦末期に連合軍と激戦が繰り広がれたモンテ・カッシーノであると説明され、破壊された砲台の跡地等を遠望しながら通過した。

 2時間半ほどのドライブでナポリの街に到着した。遠目にはきれいな建物が並んでいたが近付くと雑然としており、小路では窓からの洗濯物で満艦飾の如き盛観に驚いた。

 海辺の小高い丘に登りナポリの街並みとサンタ・ルチア海岸を写真に収めたあと海岸のレストランでテノール歌手のナポリ民謡を聴きながらイタリア料理を楽しんだ。

   ナポリの丘上から望んだヴェスビオス火山の噴火に沈んだポンペイ遺跡見学が当日の最終目的で、再びバスに乗り込みローマ時代の面影を求めて街道を快走したが、途中にあるカメオ工場直売所に立ち寄ったのが運命の分かれ道で残念な結果が待っていた。
 カメオはイタリアの名産で女性の装飾品として珍重されているので、それぞれ奥さん方へのお土産に最適と思って品定めに熱中した。下の写真は家内への土産として購入したカメオのブローチと自分用の部屋飾りである。

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ポンペイ遺跡近くのカメオ工場で購入したブローチと部屋飾り

 あとはポンペイ遺跡見学のみと勇んでバスに乗り込み走る事30分ほどで遺跡の前の駐車場に到着した。当日はガイドが付いておらず運転手が代行したが、先降りして入り口に向かった後に悄然とバスに戻ってきた。午後3時を過ぎているため既に閉門し遺跡に入場できないという返事を持ってきた。ポンペイ遺跡の見学は期待が大きかっただけに全員一瞬唖然としながら、カメオ工場での時間消費を悔しんだ。わざわざローマから、いや日本から時間をかけてやって来たのに目の前に来て入る事が出来ない情けなさ悔しさが全身を駆け巡っていた。

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午後3時過ぎに到着したポンペイ遺跡の駐車場・正面内部が遺跡の街

 閉園時間に間に合わなかった責任を感じた運転手が、遺跡の外にある個人所有の廃墟に交渉した結果、見学可能となり狭い範囲ではあったが入室して2000年前のローマ人の生活環境を目の当たりに出来た事がせめてもの慰みであった。

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ポンペイ遺跡外周の個人邸宅内部・部屋区分と室内壁画

 

1970年の秋

初の海外旅行【41】イタリア訪問(3)ローマ観光編・遺跡・旧跡

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フォロ・ロマーノ全景と遥かにコロッセオを望む(1970年11月7日)

 ヴァチカンで大聖堂の荘厳さとミケランジェロの芸術に心酔した後、市内に戻り古都ローマ2000年の歴史に直面した。先ずローマ7つの丘の中心地であるカピトリーノの丘を見学した後、背後に広がるフォロロマーノの全景を眺望したのが上の写真である。これぞ古代ローマを今に伝える真迫の光景で目から鱗が落ちる感覚を味わった。

 大地震の跡の瓦礫の街ではない!。歳月の移り変わりに刻み込まれた歴史の姿が柱一本一本に、礎石の一つ一つに宿された大パノラマで、眼を閉じれば暴君ネロが君臨し、シーザーが凱旋した美しい館や街並みが鮮やかに蘇る。

 遺跡中央に開けた嘗ての大通りを歩いて突き抜けると目の前に巨大な円形競技場コロッセオが荒々しい壁面をむき出しにして迫っていた。高さに圧倒されながら中に入り上部の観覧席に登ると競技場の地下に区切られた部屋の数々が露わに曝されていた。奴隷やライオンが入れられていた様子が脳裏を去来する中で黒猫など数匹が不気味な視線を投げ掛けた。

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 コロッセオの上部観覧席で古代ローマの競技に思いを馳せた。

 側には凱旋門もあるが素通りしてカラカラ浴場を車窓から眺めた後、市街地に入りトレビの泉で観光客に交じってコインを投げ入れた。

 そのあとはオードリーヘップバーンで有名なスペイン広場を訪れて写真を撮ったり、周辺の店でお土産を購入したりの観光気分でローマの休日を楽しんだ。

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           トレビの泉