人生の軌跡・流郷松三郎の残思録

米寿に想う我が人生

1970年の秋【2】

 初の海外旅行【2】

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日本生産性本部派遣・環境(公害)問題及び労使関係視察団

1970年(昭和45年)10月10日(土)23:30 搭乗機DC-8前記念写真

 写真 中央・団長、左端・コーディネーター兼通訳、左二人目・小生、総勢10人

 

50年前の羽田空港からの海外旅行出発風景である。ジャバラ・タラップも整備されていたが充分ではなく駐機場所までバスで移動して搭乗した。そのため機体の前で記念写真が写せるなどの余裕があったが、全員初めての海外旅行でスーツで身を固め表情にも緊張感が漂っているのが当時の渡航風景を物語っている。

日本生産性本部から日程と団構成が発表されて以来、渡航目的や訪問先諸国の国情などを勉強する会合が数度にわたって開かれその都度上京して意識を高めていたが、ヨーロッパでの生活習慣、特にホテルでのマナー習得の必要性が浮上し、全員で国内体験をすることになった。ベッドで寝る事、ボーイとの接触、チップの使い方、テーブルマナー、エレベーターの乗り方、洋式トイレ、簡単な会話など日常生活の基礎知識を勉強するため全員が名古屋のキャッスルホテルで一泊して研修した。名古屋が選ばれたのは北は仙台から南は九州大分まで分散した団員住居地の中央部に当たっていたためで、平均年齢50歳程の地方出身者主体の視察団のベルアップが計られ、出発に対処した。

終戦後に講和条約が締結され海外旅行も自由化され、1970年には年間100万人に達したと云われるが、まだ庶民には高根の花の時代であり、ヨーロッパ40日間の視察旅行参加が決まると職場仲間を中心に大きな話題となり、上役、同僚、友人、親戚などからの餞別が次々に贈られてきた。大変有難く頂戴したが返礼のお土産選定購入が大変で旅行中常に気を配りつつ買い揃えて行ったのも嬉しい悲鳴であった。

いざ出発となると見送りもまた大仰であった。

小生の場合、前日の正午頃発の列車で上京したが、職場が駅に近かったためホームには100人程の従業員が見送りに来て出発式が盛大に行われた。

更に出発当日には羽田空港の出発ロビーに10人ほどの上司、同僚、関係者、そして家族の見送りを受け、憧れの赤絨毯と金モールの出国ゲートを緊張のうちに通り抜けた。

初めてのパスポートにスタンプを受け、待合室で同行者が免税の洋酒を買うのを眺めつつ次第に過行く時間を感じながら、これから先の旅への想いが去来した。

日本に初めて登場したジャンボ旅客機が故障しダイヤが乱れ,定刻1時間遅れで駐機場にバスで移送され、これからコペンハーゲンまで飛ぶ搭乗機を目の当たりにして興奮しながら記念写真の列に加わった。